日本語を教える仕事から留学生相談へ
明子さんは現在、私立大学の国際センターで、常勤の契約職員として働いています。友人の紹介で、この大学が補習授業として留学生に日本語と英語を教える職員を募集していることを知って応募し、採用されました。
当初は留学生に語学を教えるということで就職しましたが、実際に働いているうちに相談業務が増え、学業相談や語学教育だけでなく、住宅探しやビザの問題、経済的問題など、生活全般の相談にのるようになりました。自分がアメリカで生活したときに英語で苦労した経験や、50代という年齢から来るさまざまな人生経験を活かして、留学生たちの相談を受けとめています。
勤めはじめて3年目の2003年、日本政府の「留学生10万人計画」の達成後、法務省入国管理局による留学生受け入れが厳しくなると、大学はこれを受けて、留学生の在籍管理を強化し始めました。そのため、明子さんは、相談業務の一貫として管理業務にも携わることになり、在籍管理や留学生の受け入れシステムの整備に多くの時間を割くことになりました。管理業務に携わることで、より広く大学実務を知り、大学全体の動きも理解できるようになりましたが、大学という組織のあり方に窮屈さを感じることもあります。
明子さんのもう1つの活動の場は、外国人留学生に関する学習提言グループです。留学生や就学生と関わるうちに、外国人学生の抱える問題について深く知りたいと思うようになった明子さんは、大学を超えて教職員が外国人学生の問題について勉強し合える場として研究会を立ち上げました。会では、外国人学生に関する勉強会を開いたり、国や地方自治体、教育機関などへの提言活動をおこなったりしています。明子さんは、現職を退いたら、研究会の活動にもっと力を入れたいとも考えています。
アメリカ生活が転機となって
明子さんは大学を卒業後、都内の電機メーカーに、4大卒女子の第1期生として就職しました。そこで広報室に配属され、主に社内広報誌の編集を担当。出張や残業もたくさんありましたが、楽しかったといいます。とくに編集の仕事にひかれた明子さんは、自分から希望して、会社が終った後に編集者の養成学校に2年間通い、熱心に勉強しました。
その後、出産を機に退職。「当時周りには(仕事と家庭を)両立しているよいモデルがいなかった」ことや、家族の家庭にはいるべきという無言の期待を感じたこと、出産前の仕事のペースを維持できないと思ったこと、こうした理由が重なって、8年間勤めた会社を辞めました。
しかし、実際に専業主婦になってみると、収入がなくなったことや、夫の姓で呼ばれるようになったことがショックで、明子さんは、だんだん自信を失っていきました。子育ても、不安の方が大きくて、楽しむ余裕がなくなり、強制されてやっているような気持ちにすらなりました。「この悪循環を断ち切って経済的に自立しなければ」。そう思った明子さんは、再就職を決意しました。
ところが、専業主婦を長く続けていたため、どうしたら就職できるのかがわかりません。きっかけもつかめないまま、焦るばかりの日々。ちょうどその頃、夫がアメリカに転勤することが決まりました。つらい出来事が重なって行き詰まっていた明子さんは、「気分転換という気持ちで」一緒にアメリカに行くことにしました。
5年間のアメリカ生活は、気分転換どころか、人生の重要な転機となりました。時間に余裕のあった明子さんは、まず、コミュニティカレッジに入って英語のコースを3年間受講。修了すると、今度は少人数の学習グループに参加して、さらに英語の勉強を続けました。
この学習グループで、明子さんは重要な人物と出会いました。60歳くらいのアメリカ人女性で、夫の仕事のため、子どもとともに外国で長く生活し、帰国後、50歳近くになって外国人のための英語教師になったという人です。明子さんは、彼女の話を聞いて、こういう仕事なら年をとってもできると思い、日本語教師の道を考えるようになりました。
アメリカで経験した英語の学習は、日本で受験中心の英語教育しか知らなかった明子さんにとって、新鮮で楽しいものでした。仲間と一緒に、新聞を見ながら政治についてディスカッションしたり、新聞広告や求人情報の見方など、生活に役立つ英語を習ったりするうちに、大学時代からあった英語に対する劣等感は消えていきました。
日本語教師の資格を活かして働く
「帰国後は何か仕事をしたい」と思っていた明子さんは、帰国するとさっそく、日本語教師養成講座に登録。2年間通って日本語教師の資格を取得しました。さらに、将来フルタイムで働くことを考え、「家を出る」練習として、福祉の専門学校に非常勤として勤め始めました。家族にも、これを機会に、明子さんの生活の変化に慣れてもらうつもりでした。
資格を取得した明子さんは、日本語教師として働くための就職先を探し始めました。しかし、ほとんどの求人が35歳までで、当時40代後半だった明子さんが応募できる就職先はごくわずかでした。ようやく、ある日本語学校に就職。しかし、非常勤の日本語教師だったため、支払われる給料は授業の分だけで、教材づくりやミーティング出席の交通費はすべて持ち出しという「経済的には恵まれない仕事」でした。きちんと収入の得られる仕事をしよう。そう思った明子さんは、改めて仕事先を探し、やがて現在の大学の国際センターで働くようになりました。
明子さんは、いったん専業主婦になったあと、経済的な自立を求めて再就職を目指し、資格を取り、仕事を続けてきました。しかし今では、「収入よりも、人と関わる」ことに仕事のやりがいを見出しています。家族やボランティア活動などとのバランスを上手にとりながら、「自分がやった仕事をステップにするのが1番効率的な」キャリア。そう語る明子さんの、次のステップが楽しみです。
(平成15年度インタビュー、平成17年度修正)