市議会議員に立候補
市議会議員に立候補するなど、最初は考えたこともなかった鈴木さん。立候補を依頼された当時は、勤め先の企画会社で『ワーク・ワーク 働く女性のためのお助けブック』の執筆・編集に熱中していたそうです。他方で鈴木さんは、「女性を議会へ・バックアップクラブ」にも参加していました。女性の声を政策に反映させるために、女性の代表を議会に送り出す活動を続けているグループです。
1999年の統一地方選挙。クラブでは、この選挙に向けて出馬の準備を進めていた女性が、選挙の4ヶ月前になって、夫と子どもの反対で出馬を断念。クラブの仲間は鈴木さんに立候補を勧めました。話を聞いた鈴木さんは1週間よく考え、自分の方針について仲間に念を押しました。まず、自分にはお金がないこと。土下座や鉢巻に象徴される従来の選挙はしたくないこと。落ちても失うものは何もないこと。議員は特別な人ではなく、できる人がやれば良いこと。提言活動のできる仕組みを目指すこと。
さらに、自分には「5種類の人」がいるかどうか確かめてみました。「5種類の人」というのは、(1)どんなときも好意的に応援してくれる人、(2)厳しく批判してくれる人、(3)政策やヴィジョンを一緒に考えてくれる人、(4)第3者の目で意見を言ってくれる人、(5)プライベートな生活を支えてくれる人の5つです。鈴木さんは、これらのつながりを自分のベースとして、立候補に踏み切りました。
市議会議員として
鈴木さんは、議員を「市民の声を届けて、それを実現するための装置、仕組み」と考え、そう言ってもきました。だから、当選後は応援者たちの積極的な提言を期待していました。ところが、実際に仲間の口から出てきたのは、「めぐみさん頼むよ、がんばって」、「お願いしますね」という従来どおりのお願いの言葉。まだ何も変わっていないことに愕然としました。
鈴木さんは、市民の声を実現することを目標に議員に立候補しました。議員としてさまざまな経験を積んだ現在では、さらに「どのようにしたら、市民一人一人の責任感、コミットメントを引き出していけるか」という課題に取り組んでいます。市民が「お任せする」から「自分から動く」へと態度を変えることこそ、市民運動やこれからの政策の鍵だといいます。
鈴木さんは、もっと多くの女性に地方議員になって欲しいといいます。地方議会は、介護、子育て、環境問題など、暮らしと直結する問題を多く取り扱うところです。鈴木さんはそこで、男性議員が築いてきた伝統的な議員像に従うのでもなく、男性と同じ仕事を目指すのでもなく、自分らしい議員像を追求しています。
子育ての孤独から出発
鈴木さんは大学卒業後、地元浜松にもどり、自動車販売会社に就職。女性の営業職1期生として精力的に働き、好成績をあげました。その間に結婚もして、出産を機に退職。子育ては嫌いではありませんが、話し相手もなく赤ちゃんと2人きりでアパートにこもっている毎日が、次第に息苦しくなってきました。
1年半後、この状況を打開すべく、託児施設があるという女性センター(当時)のジャズダンス講座を受講。そこで、10歳以上も年上の女性たちと出会い、子育てを終えた後の女性の生活や考えにふれることができました。また、講座の仲間から紹介されて、相互託児グループ「あんふぁんて浜松」にも参加。相互託児をしながら勉強会や遊びの会を開いて、環境問題や教育などについて幅広く学んでいるグループです。友人も増え、「今でも無二の親友といえる人々」と出会いました。
さらに、相互託児グループの仲間に誘われて、約1年半の女性リーダー養成講座に参加。初めてジェンダーや女性学について学んだ鈴木さんは、さらに、この頃できた「はままつ女性会議」というグループに加わり、女性学やフェミニズムについて勉強を続けました。
学びと同時に、鈴木さんは働く道も探し続けていました。パートで色々な仕事をしましたが、最後まで続けたのが「ソナティ・エイト」という企画会社です。女性の経済的自立を目指し、女性が出資してつくった、女性だけの会社で、鈴木さんはここで、アルバイトとして何でもやりました。現在は出資者として会社を支えています。
北京の世界女性会議に出席
1995年、鈴木さんは「はままつ女性会議」の仲間と、北京で開催された世界女性会議のオープニングに出席しました。初めてのこととはいえ、まず会議の大きさにびっくり。さらに、世界中から集まった女性たちのエネルギーが充満する会場の雰囲気や、声を挙げる女性たちの行動力に、圧倒され心を動かされました。
「北京の熱い思い」を共有した者として「何かしなければならない」。帰国した鈴木さんは、自分が今まで携わってきた「はままつ女性会議」の活動や企画会社での仕事に自信をもち、さらに熱心に取り組むようになりました。少子化進行への対応策として、国がエンゼルプランを提唱したときは、「当事者である自分たちが声をあげなければ」という北京で聞いた言葉に励まされて、女性3人で子育て支援プロジェクトを開始。女性の声を行政に反映させようと、勉強会やアンケート調査を行いました。
常に「先例のないこと」に挑戦
鈴木さんが大学を卒業したのは、男女雇用機会均等法施行の1年前。女性の職域を拡大する雰囲気も出始め、「こんな時代だから女性が今までやったことのない職業に就きたい」と、営業職を希望しました。しかし女性の営業職で採用があったのは自動車産業と住宅産業だけで、結局、地元の自動車販売会社に入社。同期で入社した女性たち5名とは、今でも関係が続いています。
営業職時代を通じて鈴木さんは、営業の基本、経済感覚だけでなく、企画のノウハウや、相手に通じる言葉で話すという心遣いも身につけました。こうした職業人としての基礎を築いたことは、その後のさまざまな市民活動にも活きていますが、なんといっても「現在の議員職に一番活きている」と鈴木さんはいいます。先例のないことへの挑戦は、議員となった後も続いています。
(平成15年度インタビュー、平成17年度修正)