地域活動で得たネットワークと男女共同参画についての学習を経て、広がった活動と再就職~NGO理事 石﨑節子さん

地域活動で得たネットワークと男女共同参画についての学習を経て、広がった活動と再就職~NGO理事 石﨑節子さん
<プロフィール>
練馬区立男女共同参画センターえーる事業コーディネーター、国際女性の地位協会理事、ねりまジェンダー研究会代表。子育てや介護もしながら、区主催の女性学講座への参加をきっかけに、身近なジェンダー問題の解決の鍵となる女性差別撤廃条約に関心を持つ。短大で専攻したエディトリアル・デザインの知識を、男女共同参画を普及する活動にもいかしている。パートタイムで始めた再就職の仕事からチャレンジをし続け、現在、活動が仕事ともつながっている。(60代)
石﨑節子さんのこれまでと
生涯学習との関わり
山形出身、高校を卒業。都内の美術短大で編集デザインを学び1969年に卒業。半年ほど会社に勤めて退社。渡米していた姉のもとに、半年間滞在。
帰国後、新聞の求人を見て、企業に就職。1970-1972年広報部に配属され、社内報の編集を担当。
旅行の業界紙に興味を持ち、3年後に転職。編集やホテルの取材を担当。その間に結婚。
出産を機に退職。夫の両親と同居しながら、籐工芸の教室やPTA活動を通じて、地域の人と積極的に関わる。
1993年頃、区の広報誌で「女性問題懇談会」の委員募集を知り、応募。以後、6年間委員を務める。
当時、介護や子供の教育などの家庭内・夫婦間問題に直面。委員活動を通じて、女性差別撤廃条約について知り、国際女性の地位協会の活動に参加。
1995年の北京会議に参加、「ねりまジェンダー研究会」を立ち上げ活動を展開
1996年、経済的自立を目指して、パートタイム就労を開始。
2009年、埼玉県の非常勤短時間職員に応募し、採用される。
2012年、地元の男女共同参画センターの事業コーディネーターとして活動。
地域活動で得たネットワークと男女共同参画についての学習を経て、広がった活動と再就職~NGO理事 石﨑節子さん
女性差別撤廃条約と男女共同参画をめぐる活動

石﨑さんの現在の主な活動は、「練馬区立男女共同参画センターえーる」と、「国際女性の地位協会」と「ねりまジェンダー研究会」です。「練馬区立男女共同参画センターえーる」では、事業コーディネーターとして仕事をして経済的対価を得ています。「国際女性の地位協会」は、国連女性差別撤廃条約の研究・普及のために、国連女性差別撤廃委員会の審議傍聴をはじめ、機関誌『国際女性』を定期的に発行するなど、幅広い活動を展開するNGOです。2003年度から、石﨑さんは理事として、事務局を担当しています。
一方、「ねりまジェンダー研究会」は、パネルの制作と展示を中心とする2人だけの活動グループです。2人のコンビで北九州市立男女共同参画センターの企 画(「女子差別撤廃条約名訳コンクール」1998年)に応募した「お母さんが語る『女子差別撤廃条約』」は、最優秀賞を受賞。制作したパネルを公民館など に貸し出したり、パネルを絵本にした『イラストで学ぼう 男女共同参画社会基本法』を出版しています。

広報関係の仕事を中断、子育て期には地域限定で活動

石﨑さんは山形県酒田市で生まれ、高校卒業後、「手に職をつけよう」と思って上京。美術短大に進学しました。卒業後半年ほど小さな会社に勤めて退職し、渡米していた姉の元に半年間滞在して、異なる文化での生活を経験しました。
帰国後は新聞の求人広告をみて応募した企業に就職し、広報部で社内報の編集を担当しました。取材のために社内の色々な部署に出入りするうちに、女性社員の意見を取りまとめる役も担っていました。その後、より編集デザインのスキルをいかすために、旅行の業界紙を出している出版社に転職。編集やホテルの取材を担当しました。その間に仕事の取引先として知り合った現在の夫と結婚、そして出産。まわりの女性からは、会社のシステムを改善するきっかけになるので辞めないよう勧められましたが、つわりがひどく、また当時はまだ託児施設が少なく、給与も低かったため経済的負担の大きさも考えて、退職しました。
退職後は夫の両親と同居し、74年に男の子、77年に女の子が生まれたため、近所の仲間と子育てをしながら、義母が開いている習字教室の手伝いや、教育番組で学んだ籐工芸の教室を自ら開くなどして地域の人と関わりました。また、小中学校のPTAでは広報を担当し、会長も務めて積極的に活動しました。しかし、いずれ子どもが学校を卒業すれば、PTA活動も終ります。40代に入った石﨑さんは、外の社会とのつながりを失うことの不安を感じ始めました。
ちょうどその頃、練馬区報で、練馬区が女性問題懇談会(以下「女性懇」と略記)の委員を募集していることを知り、「どうせ、嫁姑問題か何かでしょ」、と軽い気持ちで応募。ところが、これが大きな転機をもたらしたのです。

「女性懇」との関わりをきっかけに活動が急展開

石﨑さんが「女性懇」の委員に着任した当時(1990年代前半) は、国連第4回世界女性会議(北京会議)開催に向けて、日本国内でも、男女平等に関わる多様な催しが企画されていました。「女性懇」に参加した石﨑さんは、そこではじめて自分の身近な生活や家族関係のことについて書かれている女性差別撤廃条約の存在を知り、内容の素晴らしさに感動。それを契機に区内の女性センターの講座だけでなく、東京都主催のリーダー 研修などへ、つぎつぎと参加していきました。
国際女性の地位協会の活動に参加したのも「女性懇」委員として参加した講座がきっかけでした。講師だった山下泰子さんの話に感銘を受け、手紙を書いて直接訪ねたところ、活動への参加を誘われました。当初はわからないことだらけでしたが、会合の帰り道で山下さん等専門家に遠慮なく質問し、理解を深めていき ました。そして1995年の北京会議には、メンバーとしてNGOフォーラムにも参加し、女性差別の問題について仲間と見てわかる紙芝居を作成して、世界各国からの参加者にアピールしました。
一方、同じ「女性懇」のメンバーだった小沼稜子さんとの活動も始まりました。小沼さんがイラストを、石﨑さんが制作を担当して、女性に関する問題を大き なパネルにし、練馬区の女性センターフェスティバルで展示しました。この展示が毎年続いたので、石﨑さんが代表となり「ねりまジェンダー研究会」という、 たった2人の活動グループを結成。パネル制作の活動は、その後も発展しています。

子育て・介護そして経済的自立への模索

実はその少し前、子育てが山場を越える頃に、夫の親の介護が必要になっていました。周囲は「介護は長男の嫁の仕事」として石﨑さんに「お任せ」の雰囲気。孤軍奮闘に疲 れ果てた石﨑さんは、「女性懇」の活動で身につけた「筋道を立てた物の言い方」を活用して、夫の兄弟やその妻にも協力を呼びかけ、いっしょに介護をおこなう体制をつくりあげていきました。
1996年に夫の親を看取り、約15年の介護に区切りがつくと、石﨑さんは経済的自立を考え始めました。きっかけは、子どもの教育をめぐる夫との意見の対立でした。これが今までの生活で一番きつい経験だったといいます。離婚まで覚悟し、収入を求めて就職先を探しました。編集やレイアウト関係の仕事に応募しましたが、すべて落ちました。新聞の求人欄で40歳代でも年齢制限がない都心のホテルのルーム キーパー( 客室の清掃など) の仕事をみつけ、9時から3時のパートタイムで勤め始めました。同じような「おばさん」がたくさん働いていて、ここでも人間関係を築きながら、職場のマニュアルの作成をし、2年間勤めました。
やがて、ひとりでもなんとか食べていけると自信をつけた石﨑さんは、本気で離婚を考えました。女性センターの電話相談で離婚調停などの段取りを確認し、 「調停に行きましょう」と夫に伝えました。そこまで悩んでいたとは気づかなかった夫は、はじめて妻の真剣さに気づき、「顔色が変わった」といいます。

活動を通じた人の輪がさらに仕事につながる

夫の生活態度が変わったことで、離婚には至りませんでした。石﨑さんの活動キャリア中、最大の変化は、 この夫との関係です。かつては仕事一筋だった夫が、今では家事を任されるほどになり、子育て期に培った地域の友人ネットワークとともに、石﨑さんの活動を支えてくれるようになりました。 次の課題は、活動資金の確保です。これまで活動資金をさまざまな方法で調達してきましたが、基本的には夫の収入に支えられてきました。理想は、活動そのものから資金を生み出せるようにすること。通勤時間の長いパートの仕事に限界を感じて、自宅近くの学習塾で受付の仕事を3年ほど続け、PCスキルや事務処理能力をアップしました。2005年にはそれらが功を奏し、活動を通じて知り合った大学教授の研究室での雑務や大学生の指導のお手伝いというパートタイム勤務に転職しました。
すでに子ども達も成人し、夫の定年が近くなったこともあり、さらにボランティア活動と経済的基盤を強化したいと思うようになっていました。そこで目に留まったのが埼玉県男女共同参画センターの非常勤事業担当職員の募集でした。幸運にも採用通知が届き、3年間勤務した研究室のお手伝い職を、地域のママ友に譲り、また転職。同センターでは、それまでに活動を通じて培った人的ネットワークと知識をいかした事業の企画、昔取った杵柄の啓発紙の編集やパネルづくりを活かした館内展示などを担当しました。片道1時間の通勤は、体力づくりと割り切っての3年間でした。

生活や社会的な活動と仕事の統合

埼玉県での経験は、更に次の展開を産みました。2012年からは石﨑さんのかつての学び舎でもある地元の練馬区立男女共同参画センターえーるに、指定管理者であるNPOの事業コーディネーターとして迎えられました。2015年からはそのNPOの理事となり、センター運営の責任を担いながら活躍しています。
2003年のインタビュー時の、「ちょっと背伸びするく らいの課題に挑戦し、それをやり遂げたときの充実感、達成感が楽しい。思ってもみなかったステージが自分に与えられる度に、感動している」、という言葉通りに、身の回りの出来事から生じる課題解決のカギを女性差別撤廃条約に見つけて、さまざまなチャレンジを続けてきました。人との関わりを楽しみながら仲間を増やし、その都度経験した一つ一つが活動の成功につながってきました。これからもさらに学生、働き盛りの世代、子育てママ・パパなど、若い人たちを巻き込んで、楽しく活動しながら社会の問題を解決していきたいと考えています。

(平成15年度インタビュー、平成17年度修正、平成27年度追加インタビュー・修正)

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