14歳で中国から来日し、日本と50か国の懸け橋に~福山 満子(ふくやま みつこ)さん

14歳で中国から来日し、日本と50か国の懸け橋に~福山 満子(ふくやま みつこ)さん
<プロフィール>
中国遼寧省生まれ。14歳で、中国残留孤児だった母と来日。日本の中学校に編入後、職業訓練学校を経て美容師になる。出産のため仕事を辞めるが、子どもが幼稚園に入ったのを契機にパート、そしてフルタイムの仕事に。その間、小学校のPTA活動や地域の民生委員、主任児童委員などの仕事を兼務。地域で暮らす外国人を支援するボランティアとしても活躍。現在は横浜市の公益財団法人にて、福祉施設で働く外国人の研修や就労支援にコーディネーターとして携わる。
福山さんのこれまで
1978年2月
14歳で来日、中学1年に編入
1980年
中学校を卒業し、職業訓練校で美容師学校に通う
美容師の国家資格を取得し、美容院で働く
1986年
結婚を機に美容師を辞める
第一子、第二子出産
1990年
パートタイムの仕事を開始
メガネ屋でパートタイム開始、その後フルタイム勤務に
1999年
小学校のPTA活動に関わる
2007年
仕事と並行して主任児童委員として地域の子どもの見守り活動に関わる
保育園の言葉サポーター、いきいきニーハオなど地域の外国人を支援する社会活動に携わる
2009年
横浜市福祉事業経営者会のコーディネーターになる
14歳で中国から来日し、日本と50か国の懸け橋に~福山 満子(ふくやま みつこ)さん
14歳で突然中国から日本へ

  福山さんは大連に近い遼寧省で生まれ、役所で働く父と母のもと、5人きょうだいの末っ子として育ちました。ある日突然、母が日本人の残留孤児であることを知らされ、すぐ上の兄と母の3人で祖母のいる日本に行くことになりました。「えっ、うちのお母さんは日本人だったの」と驚きましたが、日本は素晴らしいところだと聞き、日本行きを楽しみにしていました。ところが来日した国は想像とは違い、わくわくしていた気持ちがしぼんでいきます。しかし、一家は祖母がいる日本で暮らすことが決まり、福山さんは日本の学校に転入することになりました。

日本語がわからず中学校になじめなかった

  本来は中学3年生のはずが、日本語がわからないため中学1年に編入することになりました。年下のクラスは嫌でしたがその気持ちを口には出せません。学校には行きたくないが、行かないという選択肢も想像できないまま、なぜ私はここにいなければならないのだろうという日々が1年近く続きました。
  福山さんの母親は、日本語はできませんが、帰国後すぐに紹介された自動車工場で一生懸命働いていました。学校が辛いことを母親に話すことはできず、自分で頑張らないとだれも認めてくれないのだと思いました。
  ある時突然、「勇気を出して自分から友達をつくろう」と思います。自分からクラスの輪に入っていくと、クラスメートから迎えられて一緒に遊ぶようになりました。男子生徒から「中国人」などとからかわれることもありましたが、もともとの負けず嫌いの性格が出てきて、覚えた言葉で言い返していました。

経済事情で高校進学を断念、職業訓練学校で美容師に

  中学校の勉強は、日本語がよくわからないのでついていくのが大変です。先生がテープに吹き込んだ「あいうえお」から始まり、始業時間前に国語の補講も受けていましたが、公立高校の入試は難関です。数学の成績がよかったので、先生が私立をすすめてくれましたが、当時、日本に合流した父や兄弟の生活もある中で私立学校に行くお金はありませんでした。結局、先生と相談して、職業訓練校に進学することになりました。
  職業訓練校の美容学校に1年通い、卒業後は1年間の実習を経た後で、学校の紹介で就職した美容院で美容師として働き始めました。美容師の国家試験にも無事合格します。毎日お客さんに接することは楽しい一方で、立ちっぱなしの仕事は目が回るほど忙しかったと言います。自分が美容師になるなど思ってもみませんでしたが、自分にはこの道しかないと思って頑張っていました。働きだして4年ほどたつ頃、中国の男性と出会い結婚したのを契機に、肉体的にも大変な美容師はこれで最後にしようと仕事を辞めました。

子どもが幼稚園に入ったのを契機にパートで再就職

  結婚後、神奈川県の移民が多い地域の団地に引っ越します。外国人が多く、福山さん家族の来日時とは異なり、支援も手厚く、暮らしやすい環境でした。子どもが幼稚園に入ったのを機に、飲食店でパートの仕事を始めます。しばらくして、メガネ屋の求人広告をみつけました。経験もないので無理だろうと思いましたが、意を決して応募したところめでたく採用されました。
  メガネ屋の仕事は美容院と同様に接客スキルが求められます。来店客のニーズを聞いて似合うメガネを一緒に探す仕事は、大変やりがいがありました。10時から14時の短時間勤務から次第に延長してフルタイムの契約社員になりました。

子どもを通じて小学校のPTAに関わる

  結婚後神奈川県の移民が多い地域の団地に引っ越していました。フルタイムの仕事も忙しいある日、子どもが、「ママ、私が発表するから小学校に来て」と言いました。日本の学校は敷居が高く、入りづらい場所だと思ってきましたが、先生方は笑顔で歓迎してくれました。「なんて入りやすい学校だろう」と驚きます。校長先生は、地域のみんな一緒によい小学校をつくりましょうという姿勢の方で、福山さんは、仕事をしながらPTA活動に関わるようになりました。
  外国人児童が多く学ぶその小学校は、差別やいじめもなく、子どもも保護者もみんな仲良しです。大きな記念イベントを任されるなど、PTA活動を通じて、素晴らしい校長先生や教員と保護者のチームワークを経験しました。

仕事をしながら主任児童委員と13のボランティア活動

  子どもが中学校時代は、主任児童委員と民生委員を約8年半ほど引き受けました。主任児童委員の仕事は、地域の子どもたちの見守りと関係機関との連絡調整です。毎日同じ洋服を着ている子どもがいれば、それとなくお母さんと話をして、必要であれば、学校や児童相談所に相談します。ちょうど景気が悪化しつつあり、最初に外国人、次に日本人のリストラ解雇が頻発していました。家庭では夫婦喧嘩や親子喧嘩がおき、けがをした子どもと一緒に救急車に乗ることもあります。先生の指示で活動するPTAと違い、子どもたちのために、自分で考えて動く主任児童委員の仕事は大変でした。
  学校と児童相談所や警察とのパイプ役になり、区役所、自治会など関係機関を走りまわりました。外国籍の子どもだけでなく、日本の子どものネグレクトや教育放棄の問題もありました。主任児童委員として培った経験は、現在のコーディネーターとして働く上での基盤になりました。

ボランティア活動を通じて地域で暮らす外国人の就労や高齢化に伴う問題に気づく

  主任児童委員以外のボランティア活動にも多く関わりました。その一つ、保育園の会の言葉サポーターは、日本語がわからないお母さんたちと保育士の間の通訳です。子どものお迎え時にその日の子どもの様子を伝える週2~3回のボランティアで、英語、スペイン語、ベトナム語などさまざまな言語の仲間がいました。
  リストラされた外国人から仕事の相談を受けて、求人募集中のクリーニング屋や野菜カット屋の面接などに同行することもありました。しかし外国人が応募できる仕事はなかなかみつかりません。特に、外国人が将来をみすえて経験を積んでいくことができる職場が必要であることを痛感しました。
  ほかにも団地に住む中国からの帰国者の会を支える活動にも取り組みました。会のメンバーは福山さんの母親世代で日本語が不自由な人も多く、生活上さまざまな問題を抱えています。太極拳などの文化活動もしましたが、帰国者の高齢化に伴い福祉に関する相談で役所へ付き添ったり、高齢者ホームの入所相談や見学同行を頼まれることも増えていきました。ボランティア活動を通じて日本社会の高齢化問題の現状に直面することになります。

介護事業に転職し、在住外国人の就労を支援

  る時、言葉サポーターが月1度開催する会議に、横浜市の福祉事業経営者会の事務局長が出席しました。高齢者福祉施設の社会福祉法人では、不景気でリストラされた人たちに介護分野での仕事を紹介できないかと考えていました。地域の外国人の状況をよく把握していた福山さんは、県内で暮らす外国人で、介護の仕事に関心がありそうな人の紹介を依頼されるとともに、福祉事業経営者会でコーディネーターとして働かないかと誘われました。興味を持った福山さんは、10年勤務したメガネ屋を辞めて転職します。
  新しい職場でまかされた仕事は、福祉施設で介護士として働く外国人の就労支援のコーディネートです。福山さんは介護現場については全くの素人で、事務局長も外国人人材の紹介ははじめてでした。最初は、何をしたらよいか二人で考えるところから始めます。介護についてはやりながら覚えるしかありません。県内の施設に足を運んで現場を見るとともに、数日間の施設実習も体験しました。
  最初は外国籍県民向けに「福祉施設就職相談会・面接会」の開催から始めました。しかし、日本語の読み書きが苦手な人も多く、せっかく仕事を紹介しても、職場に定着できずに辞めてしまいます。経営者会では、労働者が介護現場でスムーズに仕事を開始できるように、外国籍県民向けに無料の「ヘルパー2級講座」と「日本語講習」をはじめることにしました。「介護の仕事」と言われてもイメージできない人が多く、研修生を集めるために外国人家庭が在宅している夜間に訪ねて説明するなど苦労しましたが、研修開催は大正解でした。研修を通して、本人の意欲や希望、支援方法が確認でき、就職先とのマッチングがうまくいくようになりました。本人も研修でやる気や自信がつき、雇い入れる施設にも喜ばれました。
  とはいっても、ここにいたるのは簡単ではありません。研修修了生の受け入れ先探しには一苦労ありました。市内の特養施設をすべて回り、3分の2には玄関先で断られ、話を聞いてくれた3分の1も、すんなり受け入れとはなりません。ようやく半信半疑で引き受けた施設で働くスタッフの評判が高かったことで、徐々に受け入れへの理解が広がっていきました。

言葉の壁や誤解を越えるために

  最初の壁を突破したあとも受け入れ先での定着を図るための苦労の連続でした。まず、言葉の壁と誤解から生じるトラブルです。現場で双方の理解が不十分なために、仕事の分担に関することや、「いじめられている」などの誤解が発生します。日本の雇用慣行を知らないスタッフが許可を得ずに休暇をとるなど、文化の違いでトラブルが起きることもありました。
  福山さんは面接に同行し、外国人スタッフが日本人と同じ条件で働くことができるように、お互いが納得して仕事をすることができるように常に配慮しています。仕事を開始した後も職場を定期的に訪ねてスタッフの様子を確認しています。
  外国人人材を受け入れる施設を対象にしたセミナーの開催も始めており、最近はトラブルが減っています。職場の標記に漢字と併用してローマ字や絵文字の使用が増え、日本人スタッフが外国語を勉強する例や、外国人スタッフが利用者に英語の歌教室を開いた例もあります。一生懸命働く外国人スタッフに刺激を受けて、日本人の退職が減るなど、施設によい影響を与えている例も少なくありません。
  介護の現場ではコミュニケーションが重要です。福山さんは日本人の研修も担当していますが、どこの国の出身であるかは関係ないといいます。この人はダメなどと決めつけないで、働く人たちみんながお互いに気持ちをしっかり伝えていける職場環境を作ることがカギになると考えています。

キャリア形成に役立った人の財産とネットワーク

  福山さんはこれまで行動することで、問題を解決してきました。今の仕事では、働く人と職場のミスマッチをなくし、本人と施設がお互い長く幸せに働く場となるように心がけて動きます。現在の経営者会の仕事では、接客業で培った対人スキルや働きやすい職場づくりの経験、仕事や活動で築いた相手のニーズや適性を見定めるスキル、地域で築いた関係機関や人のネットワークなど、これまでの仕事や主任児童委員の活動などで経験したすべてが役立っています。かながわ国際交流財団などの地域レベルや全国的ネットワークを通じて、外国人の意見交換会や多文化ソーシャルワークの研修など、仕事に役立つ情報交換や勉強会に参加することでも多くの知己を得てきました。PTA仲間とは今でも仲良く、年に1回は集まります。学校を通じて知り合った多文化共生の研究者ともメールで連絡をとりあうなど、いつでも相談できる豊富な人財は福山さんの宝です。

今後について

  現在の仕事は毎年新たな事業が立ち上がり、多忙で大変な面もありますが、とてもやりがいがあります。最近は、横浜市の教育委員会や学校と連携して、外国人の高校生や大学生を対象にしたキャリア説明会や研修にも関わっています。海外の大学にも出向いて日本で働くことを望む若い学生に話すこともあります。
  福山さんは外国から来た人たちが、誇りをもって働き、生活できるように、日本との懸け橋になることが自分の役目だと考えています。夢は、いつか夫と一緒に、これまで出会った人たちの母国50ヵ国をたずねてみることです。

(平成29年度インタビュー)

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