アフリカへ行って働いてみたい!そのために看護師になる
杉江さんが途上国を含めて海外や日本で看護師としてキャリアを築いてきた発端は、物心ついた頃から広い草原があるアフリカで仕事をしてみたいと思っていたことです。小学校6年の時に、青年海外協力隊募集の新聞広告を見て入手した要項によると、募集職種は農業や工業など多岐にわたりますが、女性の募集は教職と保健医療職だけでした。高校卒業後は大阪大学医療技術短期大学部の看護学科に進み、様々な領域の看護を勉強する中、保健所実習の経験がきっかけで予防や公衆衛生に関心を持ち、将来は保健師として働きたいと思いました。
看護師としての初期キャリア
卒業後、大阪にある国立循環器病センターに看護師として就職し、心臓血管外科の集中治療室(ICU)に配属されました。新人研修で循環器系の病態生理、治療、看護について1ヶ月間の講義を受けたとはいえ、現場に行くと医師や看護師の申し送りや会話は外国語としか思えないほどわからなかったことを覚えています。多くのことが複雑に絡み合いながら早いペースで進行するICU の仕事に慣れるには、涙を伴う苦労があった一方、ICU 看護特有の面白さややりがいを感じました。
ただ、頭の片隅には常にアフリカと青年海外協力隊のことがあり、開発途上国の保健医療に必要なのは公衆衛生だと思っていました。
海外の公衆衛生に携わるために保健師学校へ
2年間働く間に、公衆衛生に携わる保健師として青年海外協力隊に参加したいと考えが固まったので、保健師資格を得るために、大阪市立厚生女学院に入学し、1年間勉強しました。
同級生が行政保健師や養護教諭としての就職を探している中、杉江さんは海外青年協力隊に応募しました。アフリカに希望を出しましたが、派遣先に決まったのはマレーシアでした。開発途上国では結核対策や母子保健に関わることが多く、杉江さんはその実務経験がなかったため、派遣前訓練の前に、保健所と産科クリニックでそれぞれ1か月間研修をしました。その後、3か月半の協力隊派遣前訓練を受け、語学を中心に任国事情や異文化理解の研修をうけました。
青年海外協力隊隊員として、マレーシアで救急医療と健康教育に携わる
派遣先はボルネオ島にあるサバ州のコタキナバルという中都市で、暮らしやすいところでした。救急搬送をする部署に配属され、救急車で患者を搬送するのが日々の仕事でした。その他、要請を受けて救急処置や心肺蘇生の講習会をすることも多く、また、配属部署と関係機関で災害救助の模擬演習を企画、実施しました。派遣前に知らされていた仕事内容とは随分異なりましたが、青年海外協力隊の仕事ではよくあることだと聞いていたので、初めは落胆し焦りながらも、こういうものだと受け入れました。しかし、保健師として活動したいという想いを諦めたわけではなく、粘り強く上司に交渉して2年目から健康教育活動をすることになりました。
配属機関の他部署に、山間部の無医村を定期的にヘリコプターで訪問診療するというフライングドクターサービス事業がありました。そのフライングドクターのチームに同行し、村人が医師の診察を待つ間に健康教育をすることを提案したところ、パイロット事業として実行してよいことになったのです。山間部に住む人々はそれぞれの部族語を話すため、英語はもちろんのことマレー語も通じないことがほとんどです。どのようにして健康情報を伝えるか。視覚に訴えるしかありません。大きなブラシと歯の模型を作ったり、調理器具と食材を持って実演したり、ポスターを作ったり、簡単なマレー語の手洗い歌を作ったりと、自己満足かもしれないと思いながらも、『Where There is No Doctor』(日本語訳、『医者がいないところで』)という本を参考に工夫を凝らしました。2年の任期を終える頃に、山間部無医村での健康教育に現地スタッフを配属し本格的に事業展開していくことが決まりました。言葉の壁を越えて地元の人たちに健康教育を展開できた達成感がありました。
帰国後、国立公衆衛生院で学び、血液科病棟で勤務
マレーシアから帰国直後は、今後のことをほとんど考えていませんでしたが、帰国の挨拶に行った厚生女学院の先生から情報を得て、東京にある国立公衆衛生院(現在、国立保健医療科学院)の専攻科看護コースに入りました。自治体が設置している保健師学校の先生や管理職になる人を対象とした1年間コースで、全国の自治体から保健師が派遣されていました。ここでは、協力隊活動を通じてマレーシアで学んだプライマリ・ヘルスケアを土台として、公衆衛生と看護をさらに深く勉強することができました。
卒業後は、虎の門病院の血液科に、以前から興味を持っていた夜勤専門看護師として就職しました。看護師は職業柄、生死に関わることが多いのは当然ですが、血液科病棟での患者さんたちやその家族との関わりを通じて、1年間という短い中で生と死と闘病について深く考えさせられました。
民間の国際保健医療協力でカンボジアへ
帰国してからも、また開発途上国で働きたいという想いは常にありました。縁があって、日本国際ボランティアセンター(JVC)のカンボジア母子保健プロジェクトで働くことが決まりました。JVCの組織内にできた医師や看護師のグループ(現在は独立して活動しているSHAREという団体)が中心となって行っている活動でした。
首都から少し離れたプノンペン郡の病院にJVCが設置した母子保健センターが活動拠点です。ユニセフと共同で母子に対し経口補水療法・栄養補給・予防接種・健康教育プログラムと乳幼児健診を実施していました。交通手段がなく、センターから遠い地域にはこちらから出向きました。
カンボジアでは無資格の伝統的産婆が、産科施設も保健医療専門職もない地域で、妊娠・出産・産褥のケアを提供していましたが、その伝統的産婆さんたちを対象に正式な訓練を提供しようという計画が母子保健局とオーストラリアのセーブ・ザ・チルドレンの間で進んでいました。協働を要請され、プノンペン郡で伝統的産婆研修を実施しました。これまで教育を受けられず読み書きができない年配の女性がほとんどで、絵で示されたテキストと筆記用具をとても感謝しながら受け取り、真剣な眼差しで研修を受けていたのがとても印象的でした。産婆さんたちはこれまでの豊富な経験を活かし、活発な議論を行っていました。人間の知識欲は万国共通で、教育の素晴らしさを改めて感じた時でした。 プノンペン郡での成功を機に、任期の2年目には伝統的産婆研修を他の二つの郡へ事業拡大しました。
国際協力とは何かを考え続け、カンボジアの人々から最前線のプライマリ・ヘルスケアと母子保健を学び、そしてプロジェクト・マネジメントの醍醐味を堪能しました。
JICAの看護専門家として、再びマレーシアへ
日本に戻り、これからどうしようかと考えている時、国際協力事業団(JICA)から看護専門家としてマレーシアの救急医療向上プロジェクトに参加しないかとお誘いがありました。国立公衆衛生院の国際保健の特別講師だった厚生省の医師が、授業の課題で杉江さんが発表したマレーシア救急医療向上プロジェクトを覚えていて、JICAプロジェクトの看護専門家として推薦してくれたのです。縁は大事だとあらためて思いました。
ひとりで1歳3ヶ月の子どもを連れて、JICAプロジェクトの専門家としてマレーシアに赴任しました。サラワク州の救急医療を向上させるプロジェクトで、その立ち上げから関わり前線で3年間働きました。杉江さんが特に力を入れたのは、サラワク州立病院の救急病棟で働く看護師と補助医師の現任教育です。心電図の読み方を学ぶコースを作り、看護師や補助医師に受講してもらいました。心電図コースは内容もテキストも、受講者のフィードバックを元に、毎回改定していきました。現状に甘んじず、常に改善するという姿勢が素晴らしいと、現地スタッフに褒められたのを誇りに思っています。杉江さんの任期終了後もこのコースを続けたいと現地スタッフが引き継いでくれたのは、とても嬉しいことでした。
カナダに移住し、クリティカル・ケア病棟の看護師として働く
帰国後1年して、カナダのトロントに移住しました。移住前にカナダの看護師国家試験受験資格の審査を済ませ、カナダ到着後すぐに国家試験を受けて看護師免許を取得しました。しかし、保守党の緊縮財政による看護職就職氷河期で、1年半近く仕事が見つかりませんでした。やっと看護師派遣会社で週1日程度の訪問看護の仕事に就き、その2〜3ヶ月後に、ある病院のクリティカル・ケア病棟の仕事が舞い降りてきました。非常勤で働きながらカレッジでクリティカル・ケア看護コースを学び、錆付いていたICUでの知識・技術に磨きをかけました。
看護学士を取得して、トロント市の保健師として働く
カナダ移住後まもなく、看護学士課程の単位を大学で取り始めました。始めた時は学士をどう活かすかは考えていませんでしたが、保健師免許制度がないカナダで保健師の仕事に就くには看護学士が必要だということを知り、学士を目指したのは間違いではなかったと嬉しく思いました。卒業の頃には就職氷河期も終わり、トロント市保健局の保健師募集があり、応募しました。雇用に年齢制限はありません。母子保健事業の保健師として採用され、その後、トロント市保健局で約13年間つとめます。
初めの9年間は母子保健で、家庭訪問、育児教室、地域との連携の仕事をしました。カナダは移民の国で、特にトロント市住民は半分以上が移民だと言われており、杉江さんが仕事で関わった家族も約9割が最近の移民でした。カナダにいながら世界各地の国際保健の現場で働いているような感覚を持ちました。
専門官のポジションに応募
日本では経験年数で職位があがりますが、カナダでは空きが出たポジションに自ら応募する必要があります。若くしてマネージャー職に就く人もいれば、管理職に興味がなく現場の最前線で働き続ける保健師もいます。杉江さんは新たな仕事に挑戦したいと思い、専門官のポジションに応募しました。
専門官の仕事では家族保健と健康生活推進事業の「質の向上」を担当しました。事業の質の管理や向上のために、保健師記録方法、記録管理、個人の健康情報保護に関する手順や内規の作成をしました。家族保健と健康生活推進事業における地域保健情報ITシステムの導入にも関わりました。広範囲に見通しながら進める仕事はやりがいがありましたが、家庭訪問など現場に行く機会がなくなったことは残念でした。
働きながら公衆衛生学修士を取得
専門官の仕事に就く約1年前からトロント大学大学院の公衆衛生学修士課程で学び始めていました。学士の時と同様、修士を取ってどうするかという計画は特になく、公衆衛生学の勉強を深めたかったのです。働きながら長期履修で4年弱で修了しました。健康と社会について考え続け、自身の価値観がよい意味で変化していくのが手に取るようにわかりました。「社会格差が健康格差を引き起こす、公衆衛生の本質は健康の視点から社会的公正を追求すること、その追求は専門家だけで行うのではなく、社会を構成するすべての人々と共に」という、これまでにも知っていたと思われる考え方が、自分の体の中にしっかり根をおろすような感覚でした。ただ、その勉強のせいかどうか、トロント市保健局にこのまま身を置いていていいのかと疑問を持ち始めてしまいました。
職場の長期休暇制度を利用して、東日本大震災被災地で健康支援活動
トロント市保健局には、長期休暇制度があります。いくつかの休暇期間と取得方法がありますが、杉江さんは、給料の25%を3年間天引きし、4年目に75%の給料を受けながら1年間の休暇を取ることにしました。修士課程を終える2012年から1年間の休暇を取って国際協力の現場に戻ろうと計画していましたが、2011年に東日本大震災が起き、カナダでそのニュースを見た瞬間に、この長期休暇は東北に行くことに決めました。この東北行きは過去3度の国際協力の機会を与えてくれた日本への恩返しの想いも含んでいました。
日本看護協会のeナースセンターを通じて東北3県被災地での保健師募集に応募し、宮城県看護協会eナースセンターの柔軟な対応のおかげで、市の委託事業である仮設住宅入居者の健康支援活動の仕事をすることになりました。
震災そのものやその後の生活環境、将来の不透明さが被災者の健康に与える影響は多大です。過去の震災と復興から学んだ知識・経験を生かして、被災地では様々な健康支援事業が行われ、それらが功を奏しているとはいえ、健康被害はかなり根深いように思われました。もともとあった成人病の悪化、生活不活発病、独居老人の孤立化、PTSD、鬱など、一朝一夕では解決できない課題が瓦礫のように山積みでした。個人の健康増進や地域保健の向上にとって、「地域おこし」や「絆の強化」は欠くことのできない重大要素です。仮設団地の集会所で行う健康相談会を通じて、どのように「絆」を強化し、どのように「地域おこし」に繋げていくか、果たしてそういうことができるのか、必死で模索した1年間でした。
トロント市保健局に復帰したが、日本への想いが強まる
1年間の長期休暇後、トロント市の職場に復帰し、家族保健・健康推進課の「質の向上」の仕事に戻りました。非常にやりがいはあるのですが、定年までのあと10年、この仕事を続けたいかと自問すると、覚悟ができません。管理職に挑戦するという道がありましたが、管理職の仕事に興味を持てません。そのような時、1年間日本へ行ったことは大きな転機となり、被災地での仕事が「現場へ」という想いに拍車をかけました。トロント市に復職後1年でカナダを引き上げ、日本で「顔の見える」仕事をしようと、日本への帰国を計画します。
日本でのこれから
海外生活は計25年と長くなりましたが、いつかは日本に帰りたいという長年の思いを果たしました。知り合いからお誘いがあったおかげで仕事に恵まれ、大学の看護学部で公衆衛生看護学の教員をすることになりました。学生の頃、医療短大の体育の先生がスキー講習会で「人に教えたいという気持ちになった時に自分自身のスキー技術の成長が止まった」と自戒の念を込めておっしゃっていたのを覚えています。人に教える知識と技術を十分に備えている自信もないまま、教えたいという気持ちになった時こそ、この言葉を自戒としようと思いました。現在持っているものを学生と共有して共に成長できたら幸いだと考えています。
「海外に長く住んだら日本の生活には馴染めない」と言われたことがありますが、日本はやはり快適です。組織内の関係性はトロントの職場の方が簡潔明瞭だったように思われ、日本の複雑さに戸惑うこともあります。カナダと比べ日本には不文律が多いようですが、大らかで優しいものもあれば複雑なものもあり、全てひっくるめてこの不文律が日本を魅力的にしていると感じます。その魅力に惹かれて帰国したので、複雑さに対する戸惑いも楽しんでいます。
(平成29年度インタビュー)