タイで生まれ育ち、留学先で知り合った日本人との結婚で来日、在住外国人の支援活動に携わる~井田ピムテープ(いだ ぴむてーぷ)さん

タイで生まれ育ち、留学先で知り合った日本人との結婚で来日、在住外国人の支援活動に携わる~井田ピムテープ(いだ ぴむてーぷ)さん
<プロフィール>
タイ・バンコク出身。タイの大学卒業後、日精樹脂工業のタイ事務所に勤務。一年後、カナダへ大学院修士課程に進学、国際開発協力学部修士課程修了。同期の日本人留学生と結婚し、1992年に来日した。慣れない国で結婚生活を始めました。日本語学習に苦労しながら、子育てと外国人コミュニティーに関わるボランティア活動に参加しました。2004年から14年間、長野県国際化協会の多文化共生暮らしのサポーターとして勤務し、在住外国人の支援活動に携わってきました。
井田さんのこれまで
1988年 チュラロンコン大学政治学部卒業
1989年 日系企業のタイ駐在事務所で1年働きながら、留学準備
1990年 カナダに留学、開発学修士課程で学ぶ
1991年 留学先で結婚、翌年来日
1993年~1996年 夫の仕事でバンコクへ
1994年 タイの大学院で博士課程を開始
1995年 出産のため休学
1997年 再来日し、埼玉に住み子育て
1998年 長野に引っ越し
2001年 国際交流のボランティア活動を開始
2004年~2018年 長野県国際化協会の相談員として働く
バンコクで生まれ育つ

  井田さんはタイのバンコクで生まれ育ちました。小学校時代、放課後は母親が看護師として働く病院で過ごしました。当時は、働く親を持つ子どもは親の職場で過ごすことが一般的で、働く母親を見ながら自分も看護師になりたいと思っていました。高校時代は読書を通じて社会問題に関心を持ち、将来はジャーナリストとして働きたいと考えるようになります。大学は、チュラロンコン大学で国際政治を専攻しました。同級生と同様に外務省に就職することも検討しましたが、さらに勉強を続けたいと考え留学することにしました。

日本企業のタイ駐在事務所で積んだ初期キャリア

  卒業後は、留学準備をしながら1年だけバンコクで働きました。学校から紹介を受けて勤めたのは、日本企業のタイ駐在事務所でした。事務所長秘書としての採用でしたが、入社すると一般的にタイでイメージするセクレタリー業務とは異なる幅広い仕事内容に驚きました。日本人所長に同行して客先で通訳をすることはもちろん、翻訳や研修の企画から運営など多くの仕事を任されました。所長からは日本的な仕事のすすめ方の基礎をしっかりと指導されました。「コミュニケーションが大切」「顧客には丁寧に対応する」「電話をとるときは必ずメモする」「時間は守る」「報告する」など、当時教わったことはすべて今も大事にしており役立っています。タイ国内の工場視察を経験する機会もありました。新卒の井田さんに何でも経験させてくれた所長の指導を受けた1年を経て、社会人として大きく成長することができました。

カナダに留学し開発学を学んだあと、結婚して日本へ

  留学先は両親の勧めもありカナダを選びました。1年目は現地で英語を勉強し、2年目から奨学金給付を受けたオタワ州のカールトン大学で国際開発を専攻しました。国際開発を選ぶにあたって、途上国であるタイには内発的発展が重要であるというタイ国王の卒業式の祝辞に感銘を受けたことも影響しています。
  研究テーマにタイの中小織物産業を取り上げ、家内工業の品質や生産性を向上するための方策を調べました。タイの農村女性は、農閑期に織物の仕事でお金を稼ぎます。当時、農村では若者が都市に出稼ぎにいき、伝統的技術の継承者が不在となる一方で、農業を機械化するための投資で借金苦に陥る人が増えていました。農村の困難を解決するために、村の女性たちが競争力のある織物商品を生産する方法はないかと考え、タイの北部や東北部でインタビュー調査を行いました。修士論文にまとめるまで大変苦労しましたが、研究者としての一歩を踏み出しました。
  留学が終わろうとする頃、カナダに同時期に留学した日本人男性と結婚するか決断が求められていました。それまで両親の決めたルールには必ず従ってきた井田さんですが、タイ人以外の男性との結婚は反対されることが予想されました。知り合った男性は途上国やタイにも強い関心を持っており、この人だったら一生一緒にいることができるだろうと思いました。井田さんは、「人生でもっとも重要なことは自分で決めよう」と考え、両親には黙ってカナダで結婚します。今になっては、子を心配する親の心がわかりますが、当時は遅く来た反抗期だったのかもしれません。その後しばらく両親に連絡できませんでしたが、今は元通りの良い関係に戻りました。

日本へ、そしてまた夫の仕事でバンコクへ、大学院と子育て

  カナダで修士課程を終えたあとは、夫と日本に向かいました。夫の故郷である長野に住居を構え、夫が求職活動をする間、井田さんは日本語を勉強する日々でした。当時は日本語学校もなく、テレビドラマを見て、耳から日本語を覚えるしかありません。来日前には、3か月程度でなんとかなるだろうと思っていましたが、日本語のハードルはとても高く感じました。
  間もなく夫の就職先が決まります。開発関係の仕事でバンコクへの派遣となったため、1年住んだ日本を後に、井田さんも一緒にタイに移りました。タイでは研究機関・大学院大学であるタイ国立開発行政研究院(NIDA)に入り、再び研究者を目指して勉強を始めました。ところがタイに戻って2年目、また研究者の道に戻れたと思っていた矢先に妊娠しました。タイでは家事や育児のお手伝いさんを頼むこともできましたが、研究も子どもの世話もベストを尽くしたいと考えていったん子育てに専念しました。ところが育児のために研究を中断しているさなかに夫の帰国が決まりました。

大学院を中断し、日本で子育て

  大学院を中断して再来日した井田さんの家族が住むことになったのは、夫の職場がある埼玉県です。夫は、子どものお風呂やおむつ替えにも積極的で、料理も得意でしたが、このころは毎日仕事からの帰りが遅く、乳幼児と幼稚園の子ども2人を連れて買い物や病院に行くのも、食事の準備も井田さんひとりが担っていました。メイドを雇うことが一般的なタイと比べて日本の子育て環境は大きく異なり、相談できるタイ人の友達もいなかったこの時期、育児には大変苦労しました。
  当時、子連れで公園に行くと、日本人のお母さんたちはみんなやさしく受け入れてくれました。ただ、今にして思うと、日本語がわからないために問題がなかったのかもしれません。そのころは、人の話がわからないときでもニコニコして、何でも楽天的にとらえるようにしていました。その後、日本語がよくわかるようになると人間関係に困った時期があります。他人との関係は、自分の気持ちの持ち方に大きく影響されると思いました。

長野に移住、国際交流協会の活動に

  夫が長時間勤務の職場を辞めて、コンサルタントとして独立することを決めました。通勤する必要がなくなり、田舎に住みたいという夫の希望もあって、再び長野に引っ越しました。都会から田舎に移った当初は、車がないと買物や銀行にも行けない生活が不便で寂しかったといいます。仕事をするために必要な日本語力が不足していたため、下の子どもが幼稚園に入ると、外国人ボランティアとして県に登録して、国際交流活動に参加を始めました。長野オリンピックが開催される年でもあり、長野在住の英語を話す外国人の友達が多くできました。
  長野県には国際化協会があり、県内で暮らす外国人のための相談員として「くらしのサポーター」が働いています。県内在住の外国人のニーズに合わせて、タイ語、中国語、ポルトガル語、タガログ語の4言語の相談員がいます。ある日、県からタイ語と日本語ができる相談員を探していると電話が入りました。日本語に自信はありませんが、何か仕事はしたいとずっと思っていました。やってみようと面接を受けたところ採用されます。幼稚園と小学校低学年の子どもたちの世話は、仕事を退職後に同居を始めた夫の母に頼み、初めて日本で働くことになりました。

国際交流協会のくらしのサポーターとして

  県が「くらしのサポーター」制度を開始した当初は、主に国際交流や通訳の仕事が想定されていたようですが、実際は生活相談が大半でした。相談業務を始めると、日本語ができないために正しい情報にアクセスできずに困っている人が多くいることがわかりました。情報不足のために誤った手続きをして不法滞在になってしまったケースや、外国人コミュニティーの中で流れた誤った噂を信じてトラブルにつながってしまったケースもありました。入管の規則、子育て、学校関係、教育制度など多岐にわたる電話や来所相談に対して、ひとつずつ調べて答えていく必要があります。専業主婦から突然フルタイム勤務となった最初の頃は精神的にも身体的にもとても大変でした。法律や行政制度は複雑で、一日中日本語で調べものをした帰宅後た、ひどい頭痛に悩まされました。制度はしばしば変わるので、常に文書に目を通し、情報収集につとめる必要があります。ただ、働き始めた1年目は勉強、勉強で大変でしたが、2年目には徐々に慣れて、3年目からは大抵のことはその場で答えることができるようになっていきました。
  相談以外の仕事もあります。県内在住タイ人の査証申請、結婚・出生届などの手続きを行う「移動領事館事業」を通じて、県内各地に住むタイ人と知り合うことができました。
  また、タイ大使館が主催する研修に参加したことで、他県で相談や支援活動をしているタイ人と知り合うことができました。それがきっかけで、大使館の支援を得て「在日タイ人ネットワーク(TNJ)」が発足しました。井田さんも発起人の一人です。複数県にまたがる10人程度のタイ人が始めたグループは、交流や相談、学習事業を展開しています。このネットワークで得られた情報や助言は相談の仕事に大変役立ちました。

相談者が自分で解決できる力をつけることができるように

  この15年間で人々の暮らしや相談内容が変わってきました。スマホの普及で情報不足から生じるトラブルも減ってきました。増えたのは、「同じ仕事をしているのに、外国人だから給料が少ない」「妊娠して産休を取得できない」など、仕事や処遇に関する相談です。雇用保険や社会保険、年金加入などに関する個別の相談の場合は、労働基準監督署につなげることもあります。
  自分の代わりに問題を片づけてほしいという相談者もいますが、相談者自身が自分の悩みを解決していけるようにサポートするのが井田さんの方針です。弁護士のように本人の代理を務めることを期待されることもありますが、時間がかかっても、日本で自立して生活していくために、相談者自身が解決する力をつけることが重要だと考えています。相談者には、日本語がうまく話せなくても、市役所に足を運んで自ら説明するように伝えます。もちろん市役所職員側も日本語が不十分な市民でも理解できるように説明する責任があると考えています。両者の意思疎通がどうしても難しい場合には、無料の電話通訳としてサポートしています。
  相談の仕事で最も達成感を感じるのは、相談者が問題を解決して自立した生活を送ることができるようになった時です。相談内容によっては、解決に至るまでに長い期間が必要になることがあります。本人の努力を要する場合も少なくありません。相談からだいぶ時間がたった頃に、その後生活を改善することができましたと報告を受ける時は、この仕事に就いて本当に良かったと思います。
  井田さんが相談員の仕事を続けていく上で一番大切だと考えてきたのは自己管理です。相談に終わりはありませんが、井田さんは必ず定時で帰ることを決めています。時間外に仕事用の携帯電話にかかってきた相談は、翌日の勤務時間内に折り返すことで、自分の生活や家族の時間と切り離すように気をつけてきました。

地域の社会活動への参加、これまでとこれからについて

  井田さんは、周囲から声がかかった時には、できるだろうか心配があっても、まずは引き受けてやってみることを心がけてきました。相談員の仕事と並行して、法廷通訳やタイ語の個人レッスンも行ってきました。国際ボランティア活動で知り合った仲間とはインバウンド観光を促進するプロジェクトも立ち上げました。公益財団法人AFSでは支部長もつとめました。県内ホストファミリーの募集や受け入れ家庭の訪問、留学生の滞在中サポートなどを仕事と並行した時は大変でしたが、子どもたちや受け入れ日本人家庭との国際交流は思い出に残る貴重な経験です。海外や地域の教育関係者や保護者とも知り合いました。おかげで25年前に日本語もわからず来日してから現在まで、仕事やボランティアを通じて多くの友人や仲間を得ています。
  15年間続けた相談員の仕事は今年度でいったん区切りをつけます。同居している夫の母には息子二人が家を出て手が離れるまでとても助けてもらいました。仕事を辞めたあとはこれまでできなかったことを始めたいと思います。振り返るとやはり日本での暮らしで一番困難を感じたのは、自分自身の子育てです。研究はキャリア半ばでやめることになってしまいましたが、これからも日本で暮らすタイ人の母親や父親を持つ子どもたちのキャリアパスについては考えていきたいと思っています。
  普段の生活では感じることはありませんが、相談を通じて、まだまだ根強く残る差別に傷つく人がいるのも見てきました。長期的には長野県内に点在しているタイ人のネットワークをつくり、タイ人が長野県民として、社会のメンバーとして地域に参画していけることに貢献する企画に取り組みたいと考えています。

(平成29年度インタビュー)

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