やりたいことには手をあげて挑戦し、「伝えること」をテーマに、キャリアを切り拓く ~ 鹿児島ウーマンライフ研究会代表 矢野圭夏(やの けいか)さん

やりたいことには手をあげて挑戦し、「伝えること」をテーマに、キャリアを切り拓く ~ 鹿児島ウーマンライフ研究会代表 矢野圭夏(やの けいか)さん
<プロフィール>
1979年大阪市生まれ。大学を卒業後、OA機器販売会社に就職。大阪で3年、東京で2年間勤務の後、ライターを目指し、結婚を機に退職。夫の転勤で鹿児島に転居。地域の公民館や男女共同参画センターの講座を経て、社会保険労務士事務所でパートタイム勤務を開始。2011年に講座修了生を中心に「鹿児島ウーマンライフ研究会」を結成し、女性が社会で自分らしく活躍できる場づくりを目指している。30代
矢野さんのこれまで
1979年 大阪生まれ
2002年 OA機器販売会社の就職し、大阪のショールームに勤務
2005年 東京に転勤
2008年 結婚を機に退職し、夫の赴任で鹿児島へ
公民館などの講座で学習し、「男女共同参画」と出会う
2009年 社会保険労務士事務所にて秘書業務、社員研修を担当する
2011年 鹿児島ウーマンライフ研究会立上げ
2013年 鹿児島市委託事業として女性起業スクール運営の為、ManableGateとして開業
2014年 鹿児島市初の女性のための起業スクールを立ち上げ
2015年からは自身の起業経験を踏まえ、講師養成講座や各種スタートアップ支援に力を入れている
やりたいことには手をあげて挑戦し、「伝えること」をテーマに、キャリアを切り拓く ~ 鹿児島ウーマンライフ研究会代表 矢野圭夏(やの けいか)さん
発信する・伝える仕事への関心

  矢野さんは、大阪で生まれ育ち、兄一人の4人家族。小学校や中学校では、シナリオを書いて劇をするなど創作活動は好きでした。高校生の頃には「家族でテレビや新聞を題材に、よく話をする環境だったので、その源にたずさわることができたらいいな」とマスコミ志望でしたが、大学は合格した経済学部に進みます。
  就職活動は出版、新聞、アナウンサーなどたくさんエントリーシートを送りましたが、採用通知がでません。慌てて一般企業をたくさん受けて、OA機器メーカーに就職します。面接で出会った人、一緒に選考に残った同期生など、会社で働く人たちの良さを感じたことが決めてでした。

初期キャリア-OA機器販売会社の総合職として

  職種は総合職で、大阪のショールームに配属されます。機器の使い方や、広報、イベント企画を担当しました。同期20人の内、女性は3―4割で、東京に10人、あとは各地に配属されました。大阪では3年半勤め、希望する職種ではありませんでしたが、「伝える」仕事であると考えるうちにだんだん面白くなり、3年目には後輩も入りました。同僚の話や本社の情報をみて東京に行きたいと考え、何回か異動願いを出していたところ転勤が決まります。
  東京では、宣伝、広報の部署を希望していたのですが、販売推進部に配属されました。新製品発売の企画をする部署は「男性社会」です。現場からのたたき上げの人も多く、周縁的な仕事しかさせてもらえません。上司の出張チケットの受け取り、メール便配達など、部内のことを一人でやっていました。大阪では女性も多く、それなりに成績を出してきたつもりでしたが、東京ではどうしたらやりたいことができるのだろうと半年ぐらいずっと模索していました。しばらくの間は、自分がここで生かされるのだろうかという不安や、せっかく東京にきたのにこれまで積み重ねてきた実績が認められない悔しさがありました。母親に電話したり、新入社員研修で結束を固めた仲間にいろいろと話をしました。ある時から「私がいないとみんな困るようになればいい」と思って仕事をしていると、いつの間にか、「矢野さんがいないと、まわらないわね」と周りから言われるようになりました。今までの実績をひとつでもわかってもらおうと、頼まれた小さな仕事でも力を入れ頑張りました。
  とてもつらい時期でしたが、1年を何とか乗り越えると要領がわかり、したいこともできるようになってきます。一方で、自分が売りたいのは製品ではない、文章を書く力を身に付けて、世の中のことを伝える仕事がしたいとあらためて思い始めるようになりました。

結婚を機に退職して鹿児島へ

  忙しい時はタクシー帰りや土曜日出勤もありましたが、1年経ってリズムがつかめた頃、仕事以外のことに挑戦したいと思い、ライタースクールに通い始めます。仕事と生活と自分の楽しみのバランスが取れ出した時期に、職場で結婚相手とも出会います。東京で2年目の終わりに結婚、退職し、転勤する夫と共に鹿児島に移りました。
  鹿児島に行く前に、今後どのような生活をしていくか、いくつかのパターンを夫と共に考えました。例えば、選択肢1・矢野さんが東京でライティングの仕事を大事にするなら夫は転勤を断る、選択肢2・矢野さんが退職して一緒に行く、選択肢3・最初は少しの期間別居してみるなど、さまざまなケースのメリットとデメリットを2人で考え、優先順位に点数をつけて、話し合いました。感情に流されずに、同じテーブルで率直に話ができるのが矢野さんと夫の関係です。2人で鹿児島に行くというのは一番マイナス点が大きかったけれど、この時は一緒にいたいというの気持ちが勝り、1年だけでも行ってみようと決まります。
  2008年4月に引っ越した当初は、専業主婦をしながら地域に溶け込むために、公民館や男女共同参画センターの講座に参加しました。当初は言葉や生活の小さなことに感じた違和感もありましたが、2年目に勤め出すと鹿児島の人と関わることが増えてきました。そんな時、男女共同参画センターが市民参画で発行している広報誌の編集サポーターに応募します。年間に2冊出す冊子の企画や取材活動は、鹿児島の人との出会いや経験、意見を聞く機会となり、異文化への関心も取り上げるなど、とても勉強になりました。

新たな仕事への挑戦

  鹿児島での1年が過ぎたところで、東京に帰ってからの選択肢を増やすために、経理を身につけようと、会計事務所、社労士事務所、税理士事務所などに履歴書を送りました。しかし、書類選考の段階で、「また転勤でしょ」「お子さんは?」と会ってもらえない。21世紀職業財団でキャリアのコンサルティングを受けたり、ハローワークに行って指導も受け、ようやく社労士事務所で勤めることになります。当初は、週3回のパートタイム。
  社労士が3人、事務は矢野さん1人という規模の事務所です。最初は電話番、お茶汲み、コピーとりから始まり、オフィスのデジタル化や求人募集・採用面接なども任されるようになります。整理収納アドバイザーの勉強も事務所に入ってから始めました。その後、週3回のパートから正職員になりフルタイムで働くようになります。社労士事務所の新しい分野として人材育成や教育を立ち上げて携わります。以前いたOA機器の会社で後輩や派遣社員を指導したり、マニュアル作りをしていたことがここで役に立ちました。

ウーマンライフ研究会の立ち上げと起業活動

  社労士事務所に勤めながら、ウーマンライフ研究会を2011年7月に立ち上げます。きっかけは20代、30代の既婚や未婚女性が参加した県主催の就労支援講座です。グループワークで数人が仲良くなり、講座担当のキャリアコンサルタントから、次年度の講座をみんなで企画しないかと提案があり、県の委託を受けるために結成しました。矢野さんは最初副代表として携わりました。ボランティア活動ですが、自分たちの思っていることをかたちにするという体験ができました。講座を開くたびに、私も参加したいという人が増えてきました。メール登録した希望者に懇親会や勉強会を開き、次年度の企画を新しい仲間に代替わりしながら作っていくことを続けました。
  この頃裁量制で続けていた事務所の仕事は、研修がある都度仕事を受託する形に切り替わりました。女性の集まりは母親向けのグループが多い中、ウーマンライフは女性のキャリアについて考える団体です。仕事を辞めて支えになったのが、ウーマンライフ研究会でした。
  その後、鹿児島市から女性起業家スクールの事業を受託するために、ソーホーかごしまで起業しました。個人事業主としてManableGateという屋号を取得しました。2013年から2014年にかけて、半年の講座を2回実施、女性を2人雇いました。市がはじめて女性に絞って実施した創業スクールを、協力してくれる仲間と乗り切りました。やる気のある人を応援するために、講座は有料としました。やりたいことがあるが、どう形にするかがわからない20代から50代が集まり、商品企画から発売につなげた起業家も誕生しています。

今後に向けて

  矢野さんは、鹿児島と東京の2拠点を行ったり来たり、それぞれの土地柄にあわせたキャリア&ライフスタイルを試行錯誤しながらウーマンライフや企業研修、起業支援の活動を続けていくつもりです。そのためのパートナーも東京と鹿児島に見つけました。継続の危機や代替わりの話もありましたが、ウーマンライフは力のあるメンバーの宝庫なので、みんなが何かやりたいというときに使える場であればいいと考えています。今後は、できる人に企画や広報もどんどんやってもらいたいと考えています。
  起業は存続が重要なため、お金は大事である一方、苦しいときに助けてもらった仲間や信頼、これまで鹿児島で経験した多くも、お金で測れないといいます。
  鹿児島で広報誌に携わるまでは、男女共同参画ということについて考えることはありませんでした。大学時代にもジェンダーや女性差別について感じさせられることはなかった。自分がやりたいと思い、思いを込めて相手に伝えれば、それは叶うと思っていましたが、東京でそうではない世界もあると知りました。認めてほしい、力を発揮したい、役立ちたいと思っているのに、なぜできないのか、と考えているときに、男女共同参画が腑に落ちたと言います。
  「やりたいと言わない限り、誰も、何も言ってくれないけれど、やりたいという手を振り払うほど冷たくもない。やりたいと言えば、必ずいいねと言ってくれる人がいる」と思い、団体としてもそうありたいと考えています。一方で状況が許さなかった人やダメと言われてきた人もたくさんいます。自分がやりたいことはできるんだと伝えてもらえる経験は大きいと考えています。

(平成28年度インタビュー)

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