女性中学校教員としてのキャリア形成 ~ 中光 理惠(なかみつ りえ)さん

女性中学校教員としてのキャリア形成 ~ 中光 理惠(なかみつ りえ)さん
<プロフィール>
短期大学音楽科専攻卒業後、1984年千葉県内市立中学校着任。音楽と英語の教科を担当し、初任から16年目に千葉大学において一種教員免許状を取得する。2校目の中学校で庶務副主任、3校目で進路主任、学年副主任、学年生徒指導担当を務め、4校目で学年主任、副教務主任、保健主事を務める。2014年4月より3年間国立女性教育会館に勤務。(50代)
中光さんのこれまで
1984年 女子音楽短大卒業後、千葉県の公立中学校教員として就職。市立中学校第3学年副担任。
1985年 市立中学校で初担任。(教員2年目)
1991年 2校目の中学校に着任(教員8年目)
1999年 千葉大学において一種教員免許状を取得(教員16年目)
2001年 3校目の中学校に着任、進路主任、学年副主任、学年生徒指導担当を務める。(教員18年目)
2009年 4校目の中学校に着任、学年主任、副教務主任、保健主事を務める。(教員26年目)
2014年 (独)国立女性教育会館に異動。事業課専門職員として男女共同参画に関わる研修事業に携わる。(教員31年目)
2016年 管理職選考合格(教員33年目)
2017年 千葉県の教育現場に復帰予定(教員34年目)
女性中学校教員としてのキャリア形成 ~ 中光 理惠(なかみつ りえ)さん
教師になるまで―学生時代に挫折を経験

  中光さんは、東京都新宿区で生まれ、その後家族で千葉県に転居します。3歳からピアノを習い始め、小学校4年生の時についたピアノ教師に勧められ、私立の音楽中学校に進みます。
  音楽中学から音楽高校へと進み、その後4年制音楽大学への進学を希望していましたが、入試のピアノ実技テストで思わぬ失敗をしたため、不本意ながら短期大学音楽科に入学。音楽を専攻したことや中学から私立学校に進学することで経済的負担を両親にかけてきたことを考え、卒業後は収入が安定している教師になろうと入学と同時に決意します。母の兄弟に教師がいたこともあり、母は教員という職業を勧めてくれました。
  短大の同級生は、ピアノ講師をした後に専業主婦になる、というパターンが多く、公立学校の教員を目指す人はほとんどいませんでした。そのような環境でも教員採用試験を目指してできる限り多くの単位を取るように勉強に励みました。好きな音楽を生徒に教える教育実習はとても楽しく、天職だと感じました。20歳の時に千葉県教員採用試験に合格。当時、中学校は校内暴力などの問題もあり、人事面接では「小学校の音楽専科として勤めた方がいいのでは」と勧められましたが、「学級担任になりたいので中学校で勤めたい」と希望しました。

教師としての初期キャリア

  社会人1年目は、市立中学の3学年副担任に任命されました。初めてのことばかりで戸惑いもありますが、教え子たちと年齢も近く、先輩のベテラン女性教員を見習いながら仕事に邁進しました。2年目からは新1年生の担任になり、音楽だけでなく臨時免許で英語も教え始めます。
  中学校教員の生活は、教えることも生徒と接することも大変である一方、刺激的で楽しい毎日でした。両親の年齢に近い保護者との付き合いも先輩教師のやり方をまねたり、教えてもらいながら何とか進めました。3年目、4年目には中学2年、3年を担当しましたが、初年度の副担任の時とは異なり、生徒の生活指導や進路指導、教科指導では思ったように進まないこともありました。ちょうど学生時代の仲間が次々と結婚して専業主婦になっていく時期にも重なりました。
  職員の朝礼の折に海外の日本人学校への赴任という話があったので、関心をもって申し出たところ、派遣には「既婚者である」ことが条件だと言われてがっかりしたのもこの時期です。何をしても壁にぶつかると感じていた時、ふと、それまで先輩たちのやり方をすべて真似ていた自分の姿に気づきました。これではいけない、学ぶべきところは大事にしながら、「自分らしいやりかた」を試みようと方向転換をはかります。そうしたことで教えることの楽しさややりがいを、新たに深く感じられるようになった、と中光さんはふりかえります。

教員としての転機一種免許の取得―

  28歳で同じ市内の別の中学校に異動しました。この時、校長から隣の市で3年間勤務しないかと言われたのですが、わざわざ遠くまで行く必要を感じなかったので断りました。この時点ではわかっていませんでしたが、中学校教員として昇進するためには、別の市町で働く経験を積むことが必要だったのです。
  2番目に赴任した中学校の校長は、偶然にも最初の中学校の時の教頭でした。中光さんの働きぶりをよく見ていてくれたこの校長から、34歳になろうとする時、現在持っている二種免許状を一種に書き換える講習を受けるように強く勧められました。〈短期大学卒業の中光さんは二種免許状でしたが、大学で講習を受けることで一種免許を取得する制度があったのです。〉中光さんと同様短大卒業で教員となった先生たちも何人か講習を受講しました。夏休みや週末を勉強や通学に充て、仕事と並行しながら最短の2年間で一種免許を取得します。一緒に講習を始めた女性教員の中には、子育てや家事などとの両立が難しく、途中で諦めてしまう人も少なくありませんでした。

進路指導主任を経験

  38歳の時に2度目の異動。ここから校務分掌は、生徒指導部が続きます。大変でしたが、楽しい授業を心がけ、生徒の心の掌握に努めました。中学校は思春期で最も指導が困難な時期ですが、生徒に対し真摯に向き合うことで一緒に問題を解決することに力を注ぎました。教員同士の関係も良く、後輩の指導もしながら、充実した仕事生活を送っていました。この時期につながった生徒の保護者とは、その後も仲良くお付き合いが続いています。
  41歳になる時、1ヵ月の入院生活を送りましたが、その年も3年生の担任と進路主任に任命されます。地区の進路主任が集まる会合に出席すると女性は一人だけ、場違いなところに来てしまったような違和感を持ちました。進路指導は生徒や保護者の希望を聞いて相談にのるために重要な役割です。進路主任として会合に出席することで教員として重要な情報を得ることができ、ネットワークも広がり、学年の先生方をリードして仕事を進めていくことのおもしろさを経験しました。リーダーとして同僚から信頼されやりがいを感じたのもこの時期からでした。

仕事と介護生活の両立

  充実した教員生活を送っていましたが、その後43歳で学年生徒指導主任を任命された年に、母親の病気が発覚します。多忙な教科指導や生徒指導などをこなしながら、母親の看護と父親の介護が始まりました。母の病気の見通しもわからず、忙しいだけでなく不安な毎日を過ごしていましたが、生徒や保護者たちからの支えがあったからこそ乗り切れたと言います。8ヵ月の闘病後に母親が亡くなりました。すでに自宅で闘病中だった父親の介護や世話も中光さんの仕事に加わりました。そのような生活を2年間続けた頃に、3度目の異動の話があり、再び市外への異動を打診されましたが、また断らざるをえません。
  新しい中学校では、保健主事と副教務主任に任命され、翌年には学年主任になります。父の介護をしながら学級、学年、進路、部活の仕事を行う日々。6時過ぎに一度帰宅し、父の世話をすませ、8時過ぎに再出勤して仕事をする日も少なくありません。父親は1年間に12回も入退院を繰り返し、2011年の東日本大震災の1ヵ月後に亡くなりました。

教員とは異なる分野で新たな経験

  父を看取ってすこしして、校長から行政への異動を勧められました。教員としての仕事が自分のライフワークと感じていた中光さんは断ります。その後再び、埼玉県にある男女共同参画の研修・教育機関である独立行政法人国立女性教育会館への3年間の勤務を勧められます。これまで教員一筋で続けてきた中光さんに対し、校長はいろいろなことを学ぶ良い機会だからと強く勧めました。片道3時間近い通勤、経験のない仕事への不安もあり、大変悩みましたが、ステップアップの最後の機会と考え承諾します。これまでも市外への異動の打診のたびに、先の進路も考えることなく断ってきました。教員生活全体を通じて、上司にめぐまれ、大切に育ててもらったと感謝している一方で、その仕事はどういうものか、またその経験のあとにどんな道筋があるかという将来像について示してもらえたら異動の意味やその先のキャリアについて考えて受けていたかもしれないと中光さんは言います。
  2014年4月から朝4時半に起きて通勤する生活が始まりました。これまで思春期の中学生に囲まれていた生活から、成人を対象とした生涯学習機関で仕事の内容は一転。研修や教育の対象は、これまでの子どもから、自治体や団体、大学や企業などの成人です。音楽や英語の授業ではベテランですが、教育研修内容は男女共同参画やダイバーシティで、まったく未知の世界です。政府の施策や調査研究の知見や成果、ジェンダー統計などこれまでとはまったく違うテーマを担当することになりました。
  着任早々、まず担当したのは企業の担当者を対象にした男女共同参画やダイバーシティ推進の事業。女性リーダー層の育成も重要なテーマとなります。また、全国の男女共同参画の行政、女性センター、NPOのリーダーを対象にした研修も担当するようになり、女性の貧困やDV、若年女性が抱える問題なども講座で企画して取り上げました。女性の抱える問題は、学校現場で直面する課題に重なる部分の多さを感じ、ここで学んだ知見を学校で役立て広めたいと強く思いました。国際研修では長年稽古に励んだ茶道の経験を生かし、アセアン地域の行政官に日本文化を体験してもらいました。

今後に向けて

  3年の任期が終わった後、2017年4月から再び千葉県の教育現場に戻る予定です。着任したばかりの頃は学校生活とかけ離れているように感じた仕事でしたが、最終的には根底を流れているものは同じだと考えるようになりました。2016年春には、毎年ニューヨークの国連本部で行われている「国連女性の地位委員会」に政府代表団の一員として参加する機会も得ました。世界中のどこの国も女性の貧困や教育の問題、意思決定における女性の少なさなど男女共同参画の実現に向けた課題を同じように抱えていること、また解決に向けて世界中の代表が集まった真剣な議論を目の当たりにしたことは、貴重な経験です。この会議には日本の大学から何人もの女子学生がさまざまな団体のインターンとして参加しており、彼女たちとの交流を通して、しっかり自分の言葉で意見や考えを表明するグローバルに主体的に活躍できる若者を育成できるように学校現場ではこれまでの経験をいかしていきたいと考えています。

(平成28年度インタビュー)

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