「ヒロシマ」発の平和教育の担い手として~渡部朋子さん

「ヒロシマ」発の平和教育の担い手として~渡部朋子さん
<プロフィール>
広島市生まれ。大学卒業後、渡部総合法律事務所の事務局長を務めるかたわら、まちづくりや国際交流、平和構築などの市民活動にたずさわる。「ANT-Hiroshima」では1989年の発足以来、さまざまな形で広島から平和を伝え、平和を願う人々の支援を続けるために、日本国内のみならず世界各国で活動を展開してきた。これらの活動にもとづく平和の心を、生涯学習や学校教育現場などで子どもたちにも伝え続けている。広島市教育委員会委員、AANI(アンナプルナ脳神経センター医療協力会)副会長、(財)広島平和文化センター評議員、ひろしまドナーバンク評議員、比治山大学非常勤講師。(60代)
渡部さんのこれまで
1976年 大学卒業
1984年 「渡部総合法律事務所」事務局長
1989年 「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」設立
(2007年NPO法人化し、ANT-Hiroshimaへ改称)
1993年 広島市女性問題協議会委員(〜1996年まで)
1998年 広島平和文化センター評議員(2012年より理事)
2002年 アフガン難民支援を開始
2004年 広島市教育委員会委員(2012年10月3日任期満了)
2011年 東日本大震災被災者支援ネットワーク「ボランデポひろしま」代表
「ヒロシマ」発の平和教育の担い手として~渡部朋子さん
活動の原点となった「ヒロシマ」を問う意識

  被爆者2世として広島に生まれ育った渡部さんの活動の原点となる出来事は、広島修道大学に提出した卒業論文の中で「ヒロシマ」で起こったこととは何かという大きな問題に取り組んだことです。執筆過程でインタビューした、社会学者の中野清一広島大学名誉教授(当時)の活動に共鳴しました。中野氏は自宅を開放して原爆で親を奪われた子どもたちを受け入れる「あゆみグループ」をつくり、活動されていました。

身近な問題から取り組みを始める

  結婚後3人の子どもに恵まれました。30歳の時に弁護士の夫が独立し、渡部総合法律事務所の事務局長に就任、現在に至ります。働きながら子育てに従事する多忙な毎日でしたが、「ヒロシマ」に関わる活動がしたいという問題意識は常に持ち続けていました。転機が訪れたのは、子どもたちが通っていた小学校で、朝鮮学校に在籍する子どもたちとのけんかが起こった時です。異なる文化的バックグラウンドを持つ子どもたち間のトラブルをうまく収めることができなかったことをきっかけに、国際理解講座を受講し、地域で国際交流を考える会を開催しました。これ以降、広島在住の留学生の身元保証人になるなど留学生支援の活動を始め、ネットワークを広げていきます。
  留学生のひとりから頼まれて、韓国人画家6人の絵画展を開くため、1989年に「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」を、東田孝昭さん(現、オーストラリアANT代表)と発起人となり、立ちあげます。1993年の「ひろしま骨髄バンク支援連絡会」の発足までの5年間、渡部さんはいくつもの市民団体の設立に関わりました。この時期は仕事と育児の両立に忙しい毎日でした。なぜ多忙な時期にことさら市民活動に従事するようになったかという理由を、渡部さんは「(法律事務所とは異なる)自分の土俵がほしい。自分の居場所は自分自身で作り出さないといけない」と痛感するようになったからと分析します。

「ANT-Hiroshima」の誕生

  留学生の支援活動をするボランティアグループとしてはじまった「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」は、活動の幅と人々とのネットワークが世界各地へ広がっていくのにともない、名称を現在の「ANT-Hiroshima」に改称しました。「ANT-Hiroshima」には、ふたつの意味がこめられています。一つは英語のアリ(ant)という意味で、「ヒロシマ」に生を受けた者として、平和な世界の実現のため、些細なことでもできることからアリのように、コツコツと一歩をふみだそうという願いです。もう一つは、「アジアにおける信頼のネットワーク」(Asian network of trust)の頭文字です。どのような活動や援助であっても、支援する対象の人たちとの信頼関係を築くことが最も重要であるという考え方が、NPO法人の名称にも反映されています。
  「ANT-Hiroshima」は被爆の実相を伝える、核兵器の廃絶、平和構築活動、平和教育・平和文化の普及、次世代の平和の担い手の育成という5つのミッションに基づき、活動を展開してきました。

アジアの紛争地域への活動の広がり〜平和の意味を次世代に伝えたい

  「ANT-Hiroshima」は徐々に活動の幅を国外へと広げていきました。その過程ではさまざまな人との出会いがありました。アフガニスタンで地雷のために負傷した子どもたちに義足を作る日本人女性を主人公にした映画『アイ・ラブ・ピース』が2004年に公開されました。映画に出演したアフガニスタン人の少女と、スタッフの1人であり映像作家でもあるヌールラ・サイフィさんが来日し、渡部さんの案内で広島平和記念公園を見学しました。公園内にある「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんは、12歳で原爆の影響と考えられる白血病のため亡くなり、同級生の小学生らが街頭で呼びかけた募金をもとに、像が建てられました。禎子さんの一生と像の建立運動の経緯をまとめた絵本『おりづるの旅』を読み聞かせたところ、二人は戦争に巻き込まれ苦しんだ禎子さんの生涯とアフガニスタンの現状を重ね合わせ、感激しました。帰国したサイフィさんから、『おりづるの旅』をアフガニスタンでも出版し、紛争に苦しむ子どもたちを勇気づけたいとの要望があり、著作権の関係で絵本を翻訳出版することはできませんでしたが、絵本に翻訳文を貼り付けたものをアフガニスタンに贈ることになりました。作業は、この活動に賛同した学生ボランティアにより行われ、アフガニスタンの子どもたちに届けられました。ダリ語からはじまった『おりづるの旅』を広める活動は、現在ではさまざまな言語に翻訳され、広島の被爆の実相を世界の紛争地域の人々にわかりやすく伝える有効な手段のひとつとなっています。
  その後、「ANT-Hiroshima」が制作支援した『マッシュルームクラブ』『ヒロシマナガサキ』等の被爆者の苦悩を描いたドキュメンタリーを通じて、活動の成果が目にみえるようになると、家族の対応にも変化があり、市民活動を開始した当初は戸惑っていた子どもたちも、成人した現在は母の活動に理解を示し、事業に協力してくれるようになりました。

次世代の担い手の育成

  今後の課題の1つとして、平和教育に関する活動を次の世代にどのように引き継いでいくかという点があります。そのために、他の団体やNPO法人と戦略的に協働しながら事業を行うように心がけています。たとえば、紛争地帯で暮らす子どもたちが描いた絵画を販売するチャリティーイベント"Art Party"は、単独で行わずに、実行委員会形式で実施しています。その際に必要となる関係者の合意形成をファシリテートする役割を渡部さんが受け持ち、運営面では「ANT-Hiroshima」のスタッフやボランティアに任せるよう努めています。こうすることで、他の組織との連携関係も深まり、スタッフの学びにもつながっています。

(平成22年度インタビュー、平成24年度掲載)

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