看護師の専門性が生んだ「富山型」デイサービス~惣万佳代子さん

看護師の専門性が生んだ「富山型」デイサービス~惣万佳代子さん
<プロフィール>
1973年、富山赤十字高等看護学院卒業後、看護師として同病院勤務。高齢の患者の病院での死に疑問を感じ、自宅で死を迎えることができないかと模索。1993年、同病院を看護師仲間2人と退職。3人で高齢者・子ども・障がい者が通うデイサービス「このゆびと~まれ」を開所する。対象が高齢者・子ども・障がい者と多様なため、縦割り行政では助成金がつかなかった。3人の退職金と国民金融公庫からの借金で開所した。「このゆびとまれ」では、高齢の利用者が、同施設で保育されている子どもの面倒をみたり、誰が利用者で誰がスタッフかわからない様子で運営されているが、こうしたことが高齢の利用者の生きがいにもなっている。
現在は、4つの事業所を運営し、多様な人々を対象にするデイサービスは「富山型」として全国に広がっている。(60代)
惣万さんのこれまで
1973年 富山赤十字高等看護学院卒業、富山赤十字病院に勤務
1993年 富山赤十字病院を退職
民営デイケアハウス「このゆびと〜まれ」を開所
「’93とやまTOYP大賞」魅力ある富山(まち)づくり部門受賞
1994年 第一回NHKふるさと富山大賞受賞
2002年 日経ウーマン・オブ・ザ・イヤー2003総合2位受賞
2004年 平成16年度女性のチャレンジ大賞受賞
2005年 男女共同参画社会づくり功労者内閣総理大臣表彰受賞
2007年 宅老所・グループホーム全国ネットワーク代表世話人
看護師の専門性が生んだ「富山型」デイサービス~惣万佳代子さん
"畳の上で死にたい"〜病院看護から地域介護へ〜

  富山赤十字病院の看護師であった惣万さんは、担当していた患者の「畳の上で死にたい」ということばに動かされて、1993年、同僚とともに3人でデイケアハウス「このゆびと〜まれ」を開所しました。20年間勤めた富山赤十字病院を退職してのことで、41歳の時でした。
  惣万さんは、1973年、富山赤十字高等看護学院を卒業すると同時に、富山赤十字病院に勤務しました。最初の5年が内科病棟、その後、11年間は小児病棟、最後の4年間が内科病棟でした。病院で息を引き取る患者を何人も看てきましたが、これでいいのかと疑問を持つようになりました。
  患者は人工呼吸器などいろんな機械に管理され、医師や看護師、家族までも心電図ばかりを見ているという光景は不自然です。治療を目的とする病院では、死は「敗北」ですが、生活の場からみたら、老人の死は自然のことではないだろうか。その時、入院していた患者から「畳の上で死にたいと言うとるがにどうして死なれんがけ?」と言われたことがきっかけとなり、退職して、デイケアハウスを設立する決心をしました。
  設立には同僚の2人の看護師に声をかけました。西村和美さんは、惣万さんの一学年下の看護学院から一緒でした。もう一人の梅原さんは惣万さんと同年齢で、一緒に働いてきました。学院での学びを土台に、3人は看護師として20年間働く中で、共通の看護観を持ち、「畳の上で死にたい」という患者の願いをかなえたいと思うようになりました。
  「富山型」と称されるデイサービスの方法を生み出した背景には、赤十字の看護師として育んだ職業意識と看護観、その看護観を共有できる職場の仲間があったのです。ともに学び、ともに働き、議論を重ねながらお互いの仕事を認めあってきたもの同士がもつ関係性、働くことを通して培ってきた関係の深さと確かさを感じました。

NPO認証はナイチンゲールの日

  3人はデイケアハウス「このゆびと〜まれ」の設立に向けて行動を開始しますが、設立資金準備段階で壁にぶつかりました。
  3人が考えるデイケアハウスは、高齢者だけを対象にした介護施設ではなく、障がい者や子どもも利用できる施設でした。「このゆびと〜まれ」という施設名も、誰もが気軽に利用できるようにと名づけたものです。ところが、行政からの補助金をあてにしていましたが、担当の職員から、高齢者か子どもか障がい者か、どれかに絞らないと補助金の対象にならないと告げられました。いわゆる「たて割り行政」と呼ばれる体制の中では、高齢者も子どもも障がい者も対象にした福祉施設は、どの枠にもあてはまらないのです。
  銀行に融資を申し出ますが、病院を退職していたため、融資は受けられませんでした。そのような中、この事業に理解を示してくれた商工会議所の後押しがあり、国民金融公庫から資金を借りることができ、これに3人の退職金の一部を充てることで開設することができました。
  設立当初は、介護保険制度もなかったので、利用料金は、1日3,000円(利用料2,500円+ご飯代500円)、近くの特別養護老人ホームの約5倍でした。そのため1日の平均利用者1.8人という日が続きましたが、全国から集まった寄付金でどうにか運営していました。
  1998年にNPO法が成立すると、資金難の解決策になるのではと、いち早く申請しました。認証式は1999年5月12日。惣万さんたちは、その日がナイチンゲールの誕生日、看護の日であることを、とても喜びました。また、富山県下で最初のNPO法人というのでマスコミにも取り上げられ、注目されました。

デイサービスが結ぶ子ども・障がい者・高齢者

  「このゆびと〜まれ」が「富山型」デイサービスとして注目されたのは、設立の時の壁であった、高齢者から子ども、障がい者までを対象にした介護・看護・保育のための複合的施設だからです。病院は、いのちを助けるために赤ちゃんから高齢者まで、すべての人が対象です。幼児がいることで気持ちが和らぐ高齢者がいることを見てきた惣万さんたちにとって、デイサービスの場にあらゆる人がいることは、当たり前の姿でした。「地域にはお年寄りもいれば子どももいる。障がい者もいれば障がい児もいる。そうだ、地域の人を応援しよう」。こうして「富山型」デイサービスは、地域のあらゆる人を対象に始まりました。高度経済成長期の施設型福祉から地域での福祉、地域を活用した福祉へと日本の福祉政策が転換してきた時期でもありました。2000年からは介護保険制度が実施、2005年からは障害者自立支援法が実施され、追い風になりました。

男女共同参画の視点から

  「このゆびと〜まれ」を運営するのは、看護や介護を必要とする高齢者や子ども、障がい者のためだけではありません。「日本型福祉」といわれるように、公的援助の対象から外れた人たちへの援助の担い手は、「家族」です。そして「家族」の中では、多くの場合「妻」「嫁」「母」の立場の女性たちが担い手となります。
  「このゆびと〜まれ」を開所してしばらくした時のことです。障がい児を育てている母親が、子どもを預けにきて、夕方、パーマをかけてにこやかに迎えにきました。これまで母親は朝から晩まで、障がい児の介助で自分の時間がもてていなかったのです。就学前(就園前)の障がい児をもった母親は、24時間、介助から解放されることはなかったのです。
  高齢者から子ども、障がい者などあらゆる人を対象にした「このゆびと〜まれ」のデイサービスは、看護・介護、育児・子育てを担わなければならない多くの女性たちを介護や育児から解放する意義も持っています。

(平成22年度インタビュー、平成24年度掲載)

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