育ちの過程から感じていたジェンダー
小学校のころ、進路指導の話のときに「女子は5、6年になったら成績が伸びませんから」「内申点は将来がある男子によくつけますから」ということが公然と言われていました。また当然のように「学級委員長は男子、書記は女子」という雰囲気でした。一方父親は戦後、男女平等の世の中になったはずと、海妻さんが書記だと怒りました。逆に母親は司書として働いていた仕事を夫の転勤のために辞めたこともあり、世の中は男尊女卑なのだから「手に職を」と言っていました。
そのような中で育って進んだ高校は、地域の伝統ある進学校でした。男女別の定員がなく、男女比は約3:1と女性は少数派で、少ないのは女性に能力がないからだという雰囲気がありました。「女はくだらないけど、海妻は違うみたい」と男友達に言われ、そう言われると女である自分の存在が引き裂かれるような感じがして、今でいうところのジェンダーの問題みたいなものを高校時代から考えていました。
地方で女性が就職できるのは、教員か公務員か医師でした。医師を目指すには病院が少なく、事実上、教員か公務員かの選択肢でした。まず女性として引き裂かれない経験をしてみたい、と女子大への進学を考え、お茶の水女子大学家庭系学科が家庭科教員になれること、婦人問題の講座があったことから、進学先に決めました。
女性学研究へ
入学した頃の婦人問題講座は、篠塚英子先生が担当されていました。研究室に訪ねていったところ、どのようなアプローチで女性学をやりたいというのもまだ考えが決まっていなかったことから、研究室の本を見て考えるようにと、本を整理するアルバイトをさせてくれました。
半年後に、付属施設の女性文化研究センター(当時。現在はジェンダー研究センター)に行って、所属する先輩にどのように進路や、自分の研究の方向とかを決めたかとかを聞いてみたらと言われました。そこでも先輩やたくさんの資料にふれることができ、刺激を受けました。また、日本女性学会へ初めて出たときの、熱気あふれる会場の様子にも衝撃を受け、女性学をやりたいという気持ちがますます高まりました。
国立女性教育会館の「女性学・ジェンダー研究フォーラム(当時)」には、大学2年生のころから何回か参加しました。女性問題に関心のある全国の方々の熱気はすごく、若い女性が参加していると励まされ、女性文化研究センターと同じように、女性学を作っていこうとしている施設ということを感じました。後に、そこが出している紀要に投稿するということは自然な流れでした。
研究者をめざして
研究テーマは、働く女性と主婦の対立、つまり女性が働くか働かないかで分けるということは、近代の社会が女性に強制している疑似対立だということが書かれたものを読んで、自分のこだわりたかったのはそれなのだと気付き、なぜ男はそういう選択を強いられないのか、子育てに係わらないでいられるのかというのを考えたいということから、男性研究、父性の研究を行うことにしました。卒業論文では、小学生の子どもを持つ父親へのインタビュー調査をまとめました。その後、修士の頃から研究と並行して非常勤講師を始め、常勤の最終応募が35歳くらいまでなので、そこまでに芽が出なかったら考え直そうということで、研究方法を模索しながら論文をまとめる苦しい日々が続きました。その間に結婚し、『国立婦人教育会館研究紀要』(当時)第2号(1998年)に論文の掲載が決まった後妊娠、原稿の校正が出産の直後でした。そしてこれも業績となって、2005年に岩手大学で常勤の職を得ることができました。
地域、後進のエンパワーメント
今、岩手という地方にいて、地域の女性たちの活動に関心を持っています。盛岡は活動が盛んです。ミッションよりメンバーシップというところ、そして学習が学習で終わっているところが改善されれば、よりよい活動となる気がします。「女性学」や「ジェンダー研究」は、現在の世の中での不合理なことを明確にするという、お金儲けとは別の意味での実学であり、学んだ人たちが明日から何か取り組み始めるということにつながらなければならないと考えていますが、なかなかそうはならず、同じような悩みをもっている方々と一緒に、ネットワークをもちたいと思っています。
また、日本女性学会の最初の頃を担っていた方々が40歳代だったと考えると、自分が40歳になり、女性学にしても、活動にしても、やはり後身をエンパワーメントしていくというのを考えなくてはならないと考え始めています。
◆海妻径子さん掲載論文
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「田子一民の「良夫良父主義」—大正期日本の父親論におけるジェンダー・ポリティクスと「ヘゲモニー」—」
『国立婦人教育会館研究紀要』第2号
(平成20年度インタビュー)