夢は舞台俳優
小学生のときから演劇部で、将来の夢は舞台俳優でした。ところが親が「とにかく2年、大学へ行け」と。戦争の影響で自分が大学に行けなかったので、やはり子どもには行ってほしかったのだと思います。「4年制に入っても2年までは」「(経済的な理由で)国公立に」と言われ、幼児教育が学べる学科に進学しました。
志望校の決め手は、祖母の母校だったことと、母が私のことを見ていて「あなたは小さい子が好きだから、小さい子のこと、幼児教育を専攻しては」と言ってくれた、その一言でした。
常に現場から
大学時代には、児童精神科医の川端利彦先生に一番影響を受けました。先生は、「この子が困っていることは何だろう」ということに絶えず気持ちを傾けて、目を向けて話を聞く。こんなに一生懸命子どもの話を聞いてくれる人はいないという感じで、子どもも語り始める。それこそ1時間でも、2時間でも話を聞いてくれるのです。
その川端先生に「机の前だけで学ぶな」と言われ、現場を見ながら学びたいと思い、大学3年生のときから重度の心身障害児の通園施設の指導員をアルバイトで週2回始めました。その後、京都の障害児福祉協会の通園施設療育部門でやはり週2回、グループに入らせてもらって勉強を続けました。
その経験から障害児の施設職員を目指して、後に結婚する相手が東京で就職することになったため、関東で職を探しました。横浜市では保母で福祉施設の職員になれるということで保育士として就職しましたが、6か月で力尽きて退職。その後、事務の仕事をし、結婚して出産のため退職しました。
もう一度、保育の仕事へ
名古屋に移って、2年おきに3人の子どもに恵まれます。しかし、家と公園と生協の三角地点を出たことがないことに気付き、また子どもの成長を見るにつれて、やはりもう一度保育の仕事をしたいという気持ちがふくらんでいきました。三男が1歳になったときに社会復帰を決意し、愛知教育大学で、養護学校教員資格が取れる2年コースを受験して合格。子どもを保育園に預けて大学へ通う毎日が始まりました。
1年後に学校を辞め、名古屋市の身体障害児の通園施設のパートの保育士として1年働き、それから自由保育に取り組んでいる風の子幼児園で保育スタッフとして4年間働きました。風の子で子どもたちと接していて「子どもは育てられる対象ではなく、育っていく主体である」とつくづく思い、それが後のまめっこ親子教室につながります。
活動の中で組織を学び、起業へ
風の子を辞めた後、もともと子どものために食の安全を気にして、牛乳の共同購入や、無農薬の野菜を取り寄せて分けるということをやっていた河合さんは、誘われて生活クラブ生協の活動を始めました。無給のボランティアの活動でしたが、理事会に入り、「組織は人の生活道具だということ、自分たちの生活を豊かにするために組織をどう使うかという発想をすればいいんだということ、組織的に動くということがどういうことか」という、組織を学ぶ大事な期間となりました。そしてその間に、一番下の4人目の子どもが生まれました。
しかし、やはり無給の仕事ではということがあり、組織の中で自分がどう行動すべきかを知り、自分たちに必要なものは自分たちで生み出せばよいということを学んだ河合さんは、自分たちのできることで起業して、自立につながる道を探しました。最初は小さな保育園をやりたいと仲間を募ったのですが見つからず、生活クラブ生協で知り合った仲間が、「私は保育園はできない。だけどアメリカでやってきた地域の子育ての支援をやってみたいと思う」という言葉から、「とにかく、一緒に始めよう」と意気投合して、1992年夏に「まめっこ親子教室」の立ち上げの話し合いを始めました。そして1993年1月に「まめっこ親子教室」をスタートさせました。
「まめっこ親子教室」が目指したものは、「女性の生き方を考える場、自立を目指す」ということが一つ、それから「子どもは自ら育つ」、その自ら育つ子どもたちの力を母親たちにわかってもらうことでした。そのためのプログラムが、自分たちがどんなふうに今まで母親として女性として生きてきたか、テーマを設定したディスカッションと、家でなかなか体験できない、でも体験してほしい遊びのコーナーでした。
さらに経済的自立をめざして
まめっこは二つの会場で実施するまでに広がりました。教育に関する市民運動の仲間からCAP(Child Assault Prevention:子どもへの暴力防止)プログラムを紹介され、そこで「エンパワメント」という言葉を知り、共鳴しました。CAPを実施する資格をとって、河合さんの活動も広がっていきましたが、河合さんが働き出してから徐々に広がっていた夫との葛藤により離婚したことで、経済的自立をめざして、まめっこから離れることになりました。そしてまめっこの縁で、1996年、大学内に設置された「女性自立支援センター」の電話相談の事務局を担うことになります。そこでは相談員の養成にも携わりました。
エンパワメントという概念に出合って
『国立婦人教育会館研究紀要(当時)』創刊号への投稿のきっかけは、勤務先で得た情報からでした。「女性のエンパワーメント」をテーマにしていたことで、気持ちが魅かれたのです。まめっこで、「もともとお母さんたちは力を持っていて、それを自己肯定していける過程を支援するのが私たちの仕事」と言語化していましたが、実はこのことが「エンパワメント」だったとわかったからです。
原稿を書くのは大変で、指導が入り、何度も書き直しましたが、「エンパワメントという概念に出会って、自分のやっていたことが整理できた。エンパワメントという考え方、概念、関係の持ち方をもっと広く知らせたい。子育て支援は指導するものではないということも伝えたい」と、訴えたいことがたくさんあったからやりとげられたと、今ではなつかしく思い出しています。
その後、「女性自立支援センター」が閉じられることになり、DVの当事者支援等を行うNPO法人、保育園の指定管理者となった企業などで働き、現在は、中間支援をしているNPO法人の事務局を担当しています。これまで、この掲載論文と自分のキャリアを結びつけようとも思わなかったのですが、当事者の声を発信していくことで社会は変わっていくので、これからは自信をもって社会に向けて発信していきたいと思っています。
◆河合容子さんの掲載実践事例報告
「エンパワメントの思想に立った子育て支援」
『国立婦人教育会館研究紀要』創刊号
(平成20年度インタビュー)