中学で始めたダンス
西さんはダンサーとしてミュージカルなどの舞台に立つほか、振付、演出助手、海外から来日する振付家の通訳などとして活躍しています。
167センチの長身と語学力。生まれつきの才能で好きなダンスを仕事にしている恵まれた女性という印象を受けますが、好きなことを仕事にして生活を成り立たせることはそれほど簡単ではありません。西さんは、人より遅くダンスを始めたため、人並み以上の努力を続けながら、試行錯誤の末、現在のポジションを築いてきました。
ダンスを始めたのは中学時代。クラス対抗のダンス・コンテストがあり、創作ダンスで好成績をおさめてから興味がわき、ダンス部に入部しました。練習は厳しかったけれど、自分で踊りをつくることが楽しく、顧問の先生にも恵まれ、コンクールなどで好成績をおさめました。しかし高校では、せっかく打ち込んだダンス部を、新しく来た顧問の先生とそりが合わず、喧嘩別れをして退部してしまいました。
迷った末の進路選択
幼い頃から絵を描くことが好きだったため、進路として当初考えていたのは、美術系大学への推薦入学でした。しかし、最終的に踊りのことが頭の中から抜けず、ダンスをきちんと習って日本女子体育大学(短大・舞踊科)への高校の推薦を受けようと決めます。そして、ダンス教室に入学、プロのダンサーと共に教育を受けました。懸命に練習し、専門家から進学を保証するお墨付きをもらったものの、推薦を受けるにはダンス部に戻らなければならないことが判明。今さら喧嘩して辞めた部に戻る気にはなれず、ダンスでの進学は断念しました。
体育大学、美術系大学のほかに考えていた選択肢は、高校時代、英語の勉強に熱中したため、アメリカの大学、アメリカの大学と同じシステムで教育を行う上智大学の比較文学学科でした。これらの大学はTOEFLとSATを受ける必要があったので、予備校に通い英語力を強化しましたが、「ぎりぎりになって、なぜか踊りを選びました」。
内弟子としての生活
ダンスを進路とするには集中して時間を咲く必要があると覚悟し、モダンダンスの舞踊団に入ることに決めました。当時はまだ、誰に何を聞けばいいかさえ分からない状態だったため、母親が知人を通して舞踊団を探し出してくれました。
舞踊団の内弟子としての毎日は、朝から晩まで一日中レッスンやリハーサルの連続。舞台では年間を通じて先輩の後ろに立たせてもらい、約1年後にはソロを務めるまでになりましたが、経済的には、お稽古代、ノルマの切符代、先生の振付代、スタジオ代、衣装代など、お金は出る一方。学費代わりに親の援助も受けましたが、ノルマがある舞台に出ると、何十万という出費になるため、とてもまかないきれず、別の仕事で補いました。
体の構造の面でも、当時の先生のテクニックは非常に負担が大きく、こうした生活を3年ほど続けるうち怪我が重なり体を壊し、やむなく舞踊団を退団。21歳になる直前でした。
ネットワークの広がりと転機
舞踊団をやめた後は、治療を続けながら、リハビリを兼ねて別のダンススタジオに通いました。ある日、スタジオの先生が関わっていた東京渋谷のシアターコクーンの公演に、1日だけの振付助手として参加。そこで芸術監督の串田和美さんに見出され、「ティンゲルタンゲル」という作品への出演依頼を受けました。この公演をきっかけに、演劇や音楽など多様な領域の出演者と知り合い、ダンス以外の仕事が入るようになりました。歌や芝居は未経験のため苦労しましたが、ジャンルを越えた舞台の面白さを経験。出演料としてまとまった収入を得たのも初めてでした。
23歳を迎える頃、自分を客観的に見つめ直すために、ニューヨークでコンドミニアムを借りて3ヶ月ほど1人で暮らしました。観劇とダンスの本場でのレッスンを通して、今の自分の力を見極めたかったからです。
帰国後、初めて自分から多ジャンルの合作による舞台に出演。1998年、正式な振付助手としてホリプロのミュージカル「ブルーエンジェル」に参加。振付家の
メリル・タンカード注1)は、
ピナ・バウシュ注2)の方法を受け継ぐ、大好きな振付家の1人です。以来、国内外の振付家からの依頼が多くなり、スタッフとしての仕事が急増していきました。
結婚と仕事
28歳のとき結婚。夫は同業者でしたが、当時収入が少なかった西さんのダンスを仕事として尊重せず、体のためにも仕事をやめるよう望んでいました。西さんは続けるつもりでしたが、結婚後は家事全般を任され、仕事の依頼も途絶えてしまいました。結婚するとダンスを職業から趣味に転じていく女性が多いため、そうみられたのかもしれません。
3年後に離婚。実家には戻らず、1人で食べていくためになんでもやりましたが、そのことが、かえって仕事の幅を広げるきっかけになりました。心配していた母親も最近では、「結婚はうまくいかなかったけど、あなたは自分のために何かをやってそれで輝いているタイプだから、何かをやっているのが一番いいんじゃないのかしら」と認めてくれるようになりました。
厳しいけれどたのしい仕事
ダンサーは一見華やかな仕事ですが、公演の収入は限られ、体を痛めても生活の保障はなく、舞台で活躍できるのは短期間です。フリーなので組合もありません。そんな厳しい条件のもと、西さんはこの世界で食べていく道を切り開いてきました。
仕事を得るチャンスは、基本的には、人から人へのつながりです。例えば海外の振付家と仕事をして、その人から別の振付家に紹介してもらったり、通訳の人と仲良くなって、通訳の仕事をまわしてもらったり。通訳の仕事では、ダンスを知っていることが強みにもなります。もちろん嫌なこともありますが、会社のように上下関係に縛られず、実力や人柄が優れている人には、性別にかかわらず需要があります。それだけに常に自分を磨く努力、自分への投資は欠かせません。
最近では、踊る以外にも、ダンスに関わる方法は色々あると思うようになりました。「好きなことを仕事にしていくために、情報収集を怠らないことがとても大切です。ダンサーとして舞台に立つことだけで生活を続けるのは難しいけれど、表現活動としてのダンスの周りにはさまざまな仕事があることも知ってほしい」。仕事の幅を広げ、新たな分野に意欲的に取り組む姿勢は、後輩たちへの何よりのエールです。
注1) メリル・タンカード:オーストラリア出身の女性ダンサー/振付家。
注2) ピナ・バウシュ:独自の様式を確立し、世界的に有名なドイツ出身の女性振付家。
(平成17年度インタビュー、平成19年度掲載)