コピーライターからNPOへ~興味あることを追いかけて~紅邑晶子さん

コピーライターからNPOへ~興味あることを追いかけて~紅邑晶子さん
<プロフィール>
NPO法人「せんだい・みやぎNPOセンター」常務理事・事務局長。テレビの制作会社勤務を経て、コピーライターとなり広告制作会社に勤務。35歳でフリーになった後、広告制作に関わることへの疑問からNPOに興味を持ち、NPOの研究会に参加。同センター設立と同時にコピーライターをやめ、事務局長となりました。(50代)
紅邑晶子さんのこれまでと
生涯学習との関わり
コンピュータの専門学校を卒業後、神奈川県で電算室のある会社に就職。働きながら、テレビのコマーシャル作りを学ぶため、夜間、広告関連の専門学校に通う。
卒業後、テレビの制作会社に転職。夜間のコピーライター養成学校にも通学。
地元仙台に戻って就職先を探す。苦労の末、コピーライターとして広告制作会社に入社。
いくつかの会社を転々とした後、友人と共同事務所を開設。
35歳ぐらいの頃、独立。以後約5年間、フリーとして活動。
NPOについて興味をもち始め、知人が関わっていた「市民活動地域活動支援システム研究会」に参加。
イギリスのNPO支援組織の調査、県内の市民活動の調査など、活動に積極的に参加。
1999年、NPO法人「せんだい・みやぎNPOセンター」を立ち上げ、コピーライターを廃業。
コピーライターからNPOへ~興味あることを追いかけて~紅邑晶子さん
「せんだい・みやぎNPOセンター」について

紅邑さんが設立時から事務局長を務める「せんだい・みやぎNPOセンター」は、宮城県・仙台市地域を拠点とする、いわゆるNPOの中間支援組織です。
設立は1997年。直接のきっかけは、紅邑さんらが開催した異分野のNPOを集めたまちづくりのワークショップでした。当時、仙台では地域に異分野のNPOをつなぐネットワークがなかったため、ワークショップは大きな反響を得ました。こうした場を定期的にもつため、月1回程度のサロン形式で継続しようということになり、事務局を担当。この活動から、やがて、NPOの支援組織をつくるという構想が生まれ、多くの賛同を得て、「せんだい・みやぎNPOセンター」が発足しました。紅邑さんはコピーライターの仕事をやめ、常務理事・事務局長となりました。

主な活動内容

せんだい・みやぎNPOセンターの主な事業は、「政策提言」、「NPOのマネジメントサポート」、「ネットワーキング」、「情報サポート」、「相談・研修」、「調査・研究」、「その他」として、サポート資源提供システムの運用や、仙台市の市民活動支援施設「仙台市市民活動サポートセンター」の管理・運営などがあり、他団体とも連携しながら総合的な事業を展開しています。
現在、特に力を入れている活動は、企業・個人(=支援者)がNPOに物や資金を提供するときの仲介です。提供したものがどうなったか知りたいという企業の要望に応えて、提供された側の情報を支援者に送り返すこともしています。
また、最近では、NPOのマネジメント支援ばかりでなく、セクター間(企業とNPO、行政とNPOなど)をつなぐ、本来の意味での仲介事業の比重が増しつつあります。今後は、自治体や町内会といった、地域にもとからある組織の自主的な活動を支援したり、それらをNPOとつないだりすることも考えたいといいます。

コピーライターになるまで

仙台市で生まれ、コンピュータの専門学校を卒業後、神奈川県の会社にプログラマー見習いとして就職しました。さらに、会社が夜間の通学を認めていたので、広告関連の専門学校に入学。働きながら、前から興味のあったテレビのコマーシャルづくりを学び始めました。
卒業後、専門学校の先生に紹介されたテレビの制作会社に転職。コマーシャルにかかわりたくて、夜間、会社の人から紹介されたコピーライターの養成学校にも通いました。しかし、コピーライターという職業は簡単になれるものでないことを知り、仙台に戻って職探しを開始。苦労の末、ようやく知り合いの紹介で広告制作会社に入社し、コピーライターとしての一歩を踏み出しました。
以来、いくつかの会社を転々とした後、数年間、友人とコピーライターの共同事務所を運営。やがてそれぞれ独立を決め、30代の半ばでフリーに。イベントの企画や企業の広告制作など、自分のペースで好きなことができる充実した毎日が始まりました。

NPOという言葉との出会い

そんな中、広告の仕事に対して疑問を感じることも増えてきました。たとえば、環境問題が叫ばれる一方で、バブル経済の勢いにのって盛んにおこなわれた宅地開発。それに伴う不動産広告の急増。けれども、住宅メーカーや不動産の広告をつくることは、環境破壊への加担とはいえないでしょうか。
また、知り合いの同業者は、年度末になると行政の報告書の請負で忙しいといいます。報告書を誰がどう使うのかはわからないが、お金になるから引き受ける。そんな話にも、違和感を覚えました。
紅邑さんはいつしか、自分の広告制作の技術を、自分が納得の行く形で使ってもらえる場所を探し始めていました。そんな場所がどこかにあるはず、もしかして「行政でもなく企業でもない」ところにあるのかもしれない。ヒントを与えてくれたのは、仕事で知り合った東北大学の大滝先生(現在代表)です。
友人と一緒に改めて大滝さんを訪ね、初めて「NPO」と呼ばれる組織があることを教えられました。

NPOについて学ぶ日々

NPOという言葉を知った紅邑さんは、よく買い物に行くエコロジー・ショップで、物知りな店長の加藤さん(現在代表)に、「NPOって知ってる?」と聞いてみました。すると加藤さん、「実は、僕がやっていることがNPOだ」。
NPOについてもっと学びたいと思い、さっそく加藤さんも関わっている「市民活動地域活動支援システム研究会」に参加。宮城県内の市民活動の調査を手伝うことになりました。その途中、偶然のめぐり合わせで、イギリスへの海外視察に参加。現地でNPO支援組織に対するヒアリングをしながら、NPOの面白さにひかれていきました。
帰国後、準備していた調査が実質的にスタート。コピーライターの仕事の傍ら、情報収集し、アンケートを発送して集計する日々が始まりました。作業を手伝いながら、だんだんと日本のNPOの形をつかんでいきました。
その後も、情報誌の発行に携わったり、個人事務所を事務局がわりに開放したりしているうちに、ごく自然に、NPOの活動支援において中心的な役割を果たすようになっていきました。
1997年、「せんだい・みやぎNPOセンター」設立。コピーライターをやめ、事務局長となりました。

自らをふり返って

紅邑さんは、自分が興味を持ったもの、面白いと感じたものには、仕事を続けながら、学校に行ったり、研究会に参加したりして積極的に関わり、自らのキャリアを形成してきました。コピーライターからNPOの事務局長へ。一見まったく関係のない仕事のように見えますが、テレビの制作会社時代に必死で身につけた文章力、コピーライターとしてのイベント運営やマネジメントの手腕も、NPOに欠けていた技術として大いに役立っています。
現在も超多忙ですが、そろそろ落ち着いて10年先のことを考えたいといいます。何でも「まず、自分が面白いと思わなければ続かない」という紅邑さん、10年後にはどこでどんな面白いことに熱中しているでしょうか。

(平成16年度インタビュー、平成18年度修正)

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