「ウィン女性企画」の活動
「ウィン女性企画」は、女性の活動・学習グループとして出発し、約25年活動を続けてきた後、2000年にNPO法人となりました。2003年、名古屋市男女平等参画推進センター「つながれっとNAGOYA」の業務を一部受託するようになったこと
は、収入面でも、対外的な認知の面でも、活動にとって大きな転機となりました。学習グループとして、少しずつ実力を蓄えてきたことが、結果的に仕事の獲得
に結びついたといえます。
とはいえ、NPOとして行政の仕事を受託したことによって、新たな課題も生じてきました。それは「事業と活動のバランス」。少し背伸びをして
でも「とにかくやってみよう」と120%の力を出して走っていくような事業と、自分たちの納得できる、自分たちのための活動とをいかに両立していくか。そ
のための仕組みを考える必要が出てきたといいます。
憧れていた専業主婦生活が・・・
渋谷さんは、横浜で生まれ育ち、夫の転勤で移動するまで、33年間ずっと横浜で暮らしてきました。家は、祖父母と同居し近くに親類がいる大家族で、祖父母や叔母たちに可愛がられて何の不自由もなく育ちました。しかし、両親が共働きだったので、「黄色い傘をもって迎えに来るお母さん」「おやつを作ってくれるお母さん」への憧れも抱いていました。
その後、大学の英文科に進み、卒業後は当時人気の高かったリース会社に就職。やがて学生時代から交際を続けていた商社勤務の男性と結婚し、出産を迎えました。勤めていた企業には当時としては珍しく、退職しても出産・育児後に再就職できるシステムがありました。そこで、いずれは復帰する予定で退
職したのですが、商社勤めの夫の忙しさは予想を超えており、子どもをもって共働きができる状況ではありませんでした。
そして数年ごとに繰り返される転勤。最初の転勤先だった広島市では、源氏物語を読む会や水泳教室に通って、なんとか地域とつながりを持とうと
努力しました。ところが、ようやくなじみ始めた頃、今度は名古屋へ移動。さらに今後もいつどこへ移動するかわかりません。サラリーマンの妻として会社中心
の生活にふり回される中、「私の人生は何なのか」と孤立感にとらわれ、暗澹とした気持ちになっていったのです。
フェミニズムとの出合い
そんなとき、友人に誘われてめぐり合った「ウイン女性企画」。最初は「ただ転勤族の人が集まって、生きがいを見つけ
ようとしているところ」としか思えませんでした。しかし活動に参加するうちに、フェミニズムを学び、自分の気持ちを整理し、無力感から徐々に立ち直るきっ
かけをつかんでいきました。
当時の「ウイン女性企画」はまだ法人ではなく、女性の活動・学習グループに加えてビジネスを少しだけする任意団体でした。この中で、渋谷さん
は学習講座の企画や、企業から受託した原稿作成の仕事を担当。社会で役立つことができるという自覚を得ました。行き詰まって「児童虐待すれすれだった」子
育ても、悩みを安心して話せる仲間を得たことで肩から力が抜け、いつのまにか楽になっていったといいます。
「子どもが好きと思えないときがあっても、一緒にいて、悪影響を及ぼさずにいい関係でいるにはどうすればいいのか、いろいろ話を聞けて、整理ができたので子どもとの関係もよくなったと思います。その意味ですごくありがたかったですね」。
その間に離婚。再婚相手である現在のパートナーは名古屋でコピーライターをしています。現在は、相互に仕事面での刺激を与えあいながら地域に根を張った生活を送っています。
グループからNPO法人へ
愛知・岐阜・三重の3県で実行委員会をつくり、「高齢社会をよくする女たちの会」の全国大会を名古屋市で開催したの
は1998年のことでした。「ウイン女性企画」代表の高橋ますみさんが実行委員会委員長、渋谷さんは事務局長を務めました。2年の準備期間に実行委員会の
会議を毎月開き、行政や企業に協力を求め、イベント資金として3000万円規模の寄付を集めるといった大きな仕事。この経験で会議の運営、企画、人の配置
や調整の方法などを学びました。
実行委員会の仕事は、交通費等の実費は支給されたものの、ボランティア・ワークです。しかしこれらは、普通のOLとしての会社勤めでは決して
得られない経験となりました。「もう、(お金とは)引き換えにならないくらいのものをもらえた」といいます。樋口恵子さんら、活動する女性たちとのネット
ワークもそのひとつです。
「ウイン女性企画」がNPO法人になったのは、その2年後の2000年2月。「高齢社会をよくする女たちの会」の全国大会の仕事が、個人とし
て、またグループとしても実力をつけ、グループが飛躍する契機になったのでしょう。また、実行委員会としての連携先の1つに行政機関があり、後に「ウイン
女性企画」が名古屋市から事業を受託することにもつながっていきました。
あたらしい働き方をひらく〜NPO法人「参画プラネット」のチャレンジ
渋谷さんは2005年4月から大学院で労働法を学び始めました。NPOでの働き方は、労働とそれに応じた対価として
の収入という1対1の対応関係ではなく、志がプラスされています。現在の労働法ではこうした多様な労働について不十分にしか対応できないのではないかと感
じ、専門的に労働法を学ぶため大学院進学を決意しました。活動に直結した実践的なことを学んで、その成果を再び活動の場に持ち帰りたいといいます。
活動を続けるのは「自分のため」。社会的に意味のある活動だからといって、自分が仕事を背負いすぎれば、その仕事を他の人と分けるのが難しく
なり、「辞める」ことさえできなくなります。むしろ次の人にどう仕事を譲っていけるかを考え、誰でもできるような仕事として仕組みを確立することが必要だ
といいます。
2006年4月からは、代表理事を担当するNPO法人「参画プラネット」が名古屋市男女平等参画推進センター「つながれっとNAGOYA」の指定管理者となり、仕事と責任の範囲も拡がってきました。
自分を含めた女性たちの新しい生き方と新しい活動組織のあり方を重ねて考え、きりひらいていこうとしている渋谷さん、今後の展開が楽しみです。
関連ウェブサイト
・
NPO法人参画プラネット
・
つながれっとクラブ
(平成16年度インタビュー、平成18年度修正)
インタビューその後
2007年渋谷さんは大学院後期博士課程に進みました。NPO活動の実践者として、実践と研究の両面をとらえる「実践研究」の分野を確立したいと思っています。NPO活動の傍ら、学会へも精力的に参加するようになりました。2009年4月からは、三重大学「女性研究者支援室」の特任講師に任命されました。一緒に活動してきた後輩たちが次々に能力を発揮していく姿を楽しみに応援しながら、自らもさらなるステップへと一歩踏み出します。
◆渋谷典子さんの掲載実践事例研究
・
「学びと実践、政策提言から「男女共同参画社会」の創造へ〜女性の自立を目指すNPOの事例をとおして〜」
『国立女性教育会館研究紀要』第8号
(平成20年度追加)