出発点は青年海外協力隊
現在、荻原さんは、長野県の小さな村で保健師として働いています。そんな荻原さんの仕事上のキャリアは、意外にも青年海外協力隊での仕事から始まりました。
荻原さんは、大学在学中、長い休みになるとバックひとつでアジアを旅しているうちに、旅行者ではなく、生活者として外国を見てみたいと思うようになりました。そこで、電車の中で広告を見た青年海外協力隊に、日本語教師として2回応募しました。しかし、2回とも不採用。
ついに事務所まで相談に行った荻原さんは、野菜の栽培指導ならば特別な専門をもたなくても研修付きで合格になるかもと教えられ、それに応募。今度は採用されて、茨城県の農業研修学校で1年間の研修を受けた後、スリランカへ派遣され、コロンボのスラム街で女性や子どもを対象に、家庭菜園づくりを指導しました。
2年後、任務を終えて帰国した荻原さんは、自分は何がやりたいのかもう一度真剣に考えてみました。スリランカでの生活は楽しかったし、将来自分が子育てを終え、ある程度時間に余裕ができたら、また海外に出たい。そのときは今回のように中途半端な技術ももたずに行くのではなく、しっかりとした技術をもって、それを活かす形で行きたい。
専門性があり、人間に近く、ずっと働くことができ、国際性があること。この4つを、荻原さんは次の仕事の条件として決め、保健師になろうと決意しました。というのも、スラム街での経験から、さまざまな職種のボランティアがある中で、切実に必要とされているのが看護師や保健師といった医療関係の仕事であると感じたからです。
キャリアの転換点 〜資格を得る〜
目標を定めた荻原さんは、東京の実家に戻り、資格取得の準備を始めました。27歳で再び進学したいと言い出した娘を、両親は「自分で決めたことだから」といって特に反対もせず、家においてくれました。荻原さんにとって、とてもありがたい支援でした。
入学した都立の看護専門学校は、都の援助があるので学費は月5,000円と格安で、制服は貸与、実習病院までの交通費も支給されました。さらに都の看護学生を対象とした奨学金を月35,000円受けました。これは、都に就職して何年か働けば返還の必要がないものでした。
卒業後、荻原さんは、さらに保健師を目指し、保健師学校を受験しました。看護学校在学中に結婚した夫の職場が長野県で、長野県に移って夫と暮らすために、長野県と山梨県の学校を受験。結局、山梨県の学校に合格して、1年間は長野県(岡谷市)から山梨県まで通いました。
ここでの費用も約20万円と安く、長野県から月35,000円の奨学金を1年分もらうことができました。これは長野県で3年間働けば返還しなくてもいいというものでした。
しかしいくら安いとはいえ、看護学校、保健師学校に通うには費用がかかります。また、医療系の予備校に通うのにも、総額10万円ほどかかりました。こうした資金には、青年海外協力隊の給料の帰国支援金を使いました。しかし、支援金と奨学金だけでは足りなくて、アルバイトをしなければならず、肉体的にもきつかったといいます。
就職活動
就職先は、夫の仕事先である長野県の、とくに小規模の町村を希望しました。しかし、青年海外協力隊での経験を評価してくれるところはわずかでした。また、長野県は年齢制限が26〜28歳位で、僻地を除けば、31歳になっていた荻原さんが応募できる求人は少ししかありませんでした。「年齢制限に引っ掛かるけれど受けさせてくれませんか」と電話したり手紙を書いたりしましたが、だめでした。
保健師学校は山梨県立で、県外の就職は学校の守備範囲外であり、難しい状況でした。それでも学校の先生方は熱心に探してくれ、過去に長野県の小規模町村に就職した卒業生の保健師に連絡してくれました。その卒業生が長野県内の町村に電話して、南牧村で保健師の採用予定があるという情報を探しあててくれ、これにアプローチした結果、採用となったのです。
小さな村の保健師 〜保健師として地域に暮らす〜
荻原さんは現在、八ヶ岳に程近い長野県南牧村に、保健師として勤務しています。村では荻原さんのほかに2人の保健師が働いています。
保健師の業務のうち、荻原さんが担当しているのは「母子」と「精神」です。「母子」の仕事は、主に、月に1度の子どもの検診や教室を企画・立案し、実施することです。検診の際には、子どもの発達チェックだけでなく母親の様子も観察し、育児不安を抱える母親のところへは家庭訪問して話を聞いたり、孤独に陥らないようサークルづくりを応援したりもします。場合によっては、カウンセラーなどの専門家を紹介することもあります。
「精神」の仕事では、身体・知的・精神の障害者を対象とした村の共同作業所に定期的に顔を出したり、精神が不安定になって自分で通院できない人を家庭訪問したり、話し相手になったりします。本人家族からの電話には24時間いつでも対応し、ときには障害者と家族の間に入って話を聞くこともあります。担当の仕事以外でも、成人病・生活習慣病の講習会や、近所の老人の健康管理など、相談を受けるとなんでもします。
保健師の仕事は、働いている市町村の規模によって、仕事の内容が違いますが、「人が好き」という人には、とても向いている仕事だと荻原さんはいいます。たとえば、病院は仕事の対象者を「病人」として見ますが、保健師は対象者を「生活者」として見ます。そこが面白いけれど、逆に気持ちが入りこみすぎてしまい、仕事が終わっても気持ちが切り換えられず、家まで悩みを引きずることもあるそうです。
青年海外協力隊から帰ってきて、人に近く、ずっと働くことができ、国際的にも通用するという条件にぴったりと当てはまる職業を見つけ、希望をかなえてきた荻原さん。しばらくは、この職場でキャリアを積んでいくのでしょうが、近い将来、キャリアの出発点でもある海外で、活躍する荻原さんの姿を目にできるかもしれません。
(平成15年度インタビュー、平成17年度修正)