キャビンアテンダント志望から航空会社の地上職へ
井上さんは福岡県筑後市で生まれ、高校卒業後、英語が好きだったので福岡市内の英語専門学校に入学します。キャビンアテンダントを志望していましたが叶わず、福岡空港で勤務する仕事に採用され、福岡で一人暮らしを始めます。
空港では、飛行機の到着から出発までの時間管理、手荷物預かり、誘導、出発系統のアナウンス、チェックイン手続き、発券など、あらゆる分野の仕事に携わりました。勤務時間は朝6時の場合も12時からの場合もあり、シフト制で一番遅い時間帯は夜の10時まで。そこに8年務めます。
26歳で結婚、子どもができるまで仕事を続けましたが、妊娠8ヵ月のときに辞めることになります。辞めたくはありませんでしたが、子育て女性が担うものという固定的性別分業に捉われていたため、仕事が多忙な夫と一緒に育児をするという考えは全く思い浮かばず、「朝6時からの仕事のとき子どもはどうするの」と実家の母も反対。早朝から預かってくれるところなんてないだろうし、どうやって続けたらいいのか想像もつかない。当時は、配置転換を願い出るという発想はまだない時代で、妊娠したら辞めるのが一般的で、上司によっては、マタハラのような対応をする男性もいました。不規則勤務で子どもを育てながら復帰する姿が想像できない、方法も見つからないまま、自分で無理だとあきらめてしまったのだ、と後から井上さんは思います。
長男が4歳の時にパートで再就職
長男が生まれてすぐに義母が他界し、一人暮らしになった義父と同居を開始。働き盛りの夫は毎晩遅くまで帰ってこない日が続きます。義父と赤ちゃんと自分の3人での食事はまるで義父と結婚したような暮らしでした。育った家庭環境から根深く染み付いていた家事も育児も女性である私がやらなきゃという嫁としての思い込み、慣れない土地での生活、初めての育児にも悩み、暗い気持ちに襲われていました。
その後、様々な事情もあり、家を出たいなと頭をよぎる日々を過ごします。何か行動しなければと、再度働くことを考えるようになります。33歳、長男が4歳の時、ようやく決断できて、短時間パートにつきます。できればパートではなくてフルタイムで働きたいと思っていましたが、育児は母親が一緒にいることが一番幸せだという根深い思い込みがあったのだと、井上さんはふりかえります。
まず最初は、近くの病院で働くことにして、子どもは保育園に入りましたが、保育料を払うと手元に1万円ぐらいしか残らないほどの給料でした。収入をもう少し増やしたいとずっと考えていた、と言います。病院に勤務しながら、久留米市のマザーズハローワークに足繁く通い仕事を見つけました。その求人に眼が留まったのは、「働くお母さんを応援します」と求人票に書いてあったのがきっかけです。制服の卸会社で営業事務という仕事は経験したことはありませんでしたが勤めてみることにしました。毎日9時半から3時半の勤務。給料は前よりも上がりましたが、まだ扶養内です。その後、2年間働き、仕事と家事育児の両立に段々と慣れて行きました。下の子が小学校入学と学童保育が開始したのを機に、フルタイムで6時までの仕事にチャレンジしようと思うようになりました。
フルタイム勤務へ
一方、航空関係の仕事に未練があり、チャンスをずっと探していました。派遣社員の登録をしたところ、飛行機の座席や旅行パッケージの予約などの電話対応するフルタイムの仕事がすぐみつかりました。途中、会社側の都合で、残業が多い旅行販売部へ転籍することとなりました。社員の方々が遅くまで残業する状況、派遣社員である自分だけが定時退社していることで、肩身が狭い思いをしていました。ある日、派遣会社の担当者に、次回は契約更新をしないと突然告げられました。目の前が真っ暗になり、理由を教えてもらえない急な派遣切りは本当に悔しかったと言います。しかしながら、社会はIT化が進み、スキルの遅れを感じていたワード・エクセルなどの使い方、メールとインターネットで仕事をする経験を積んだことは、その後の再就職にも大きく役立つことになります。
「男女共同参画」と出会う
次の仕事は、いつ契約を切られるか分からない働き方はしたくない、派遣切りはもう二度と経験したくないと痛感。ハローワークに通い正社員の仕事を探し応募しますが、面接を受けてもなかなか採用になりません。就職活動をしながら、不本意ながらも短期間派遣での仕事をいくつか続けます。そんな折にハローワークから電話で福岡県男女共同参画センター「あすばる」の仕事を紹介されました。その時、求人票に書かれていた「男女共同参画社会」という言葉を初めて知ることになるのです。結婚・出産・育児を経て、女性としての人生を過ごす中で、子育てしながら働き続けることの難しさ、仕事と家事育児の両立に大きな壁を感じていた時でした。最初は、この堅い言葉にあまり良いイメージを持っていませんでしたが、調べていくうちに「男女共同参画社会基本法」という法律があり、その法律には、女性と男性は対等であり、家事も育児も地域活動も担い合うということが明文化されていました。自分が感じていた悩みを社会の課題として取り組んでいるセンターがあると知ったことも転機でした。
センターの嘱託職員として採用が決まり、仕事は事業企画課。男女共同参画推進のための事業企画運営を担い、職員向けの男女共同参画セミナー、DVセミナー、働く女性向けシリーズセミナー、地域づくり事業などを担当しました。5年目には、女性リーダーを育成する事業の立ち上げに携わり、大きな事業をゼロからやり遂げたことが自信へ変わっていきました。また、受講生や講師との出会いは人生のターニングポイントになっていきます。「あすばる」での雇用期間を終え、男女共同参画推進に関わることが自分のライフワークだと考えた井上さんは、大野城市の男女平等推進センターの契約職員になりました。44歳の転機に、ここでもう一度頑張ってみようとまた新しい決断をしたのです。
その頃、毎晩帰りが遅かった夫が転職し、早く家に帰ってくるようになりました。結婚当初からは考えられないほど、家事や育児にも積極的に関わり、ワークライフバランスが取れた働き方ができるように変わりました。何となく問題をはらんでいた2人の関係も井上さん自身が夫との対等感を感じられるようになったころ、自然に修復していくようになったと井上さんは笑いながら語っています。男女共同参画を学んだことで、自分が一番変わったのかもしれないと。
キャリアコンサルタントとして
センターの仕事は、地域の方々との交流も楽しくやりがいも感じていた一方で、契約職員の経歴を積み重ねても、役職に就けるかどうかもわからない、果たして自分の描いていた未来はあるのか、ステップアップできるのかと不安を抱くようになります。何かしっかりしたものを身に付けたいとキャリアコンサルタントの資格を取得し、退職を決意。その後、女性リーダーを育成する事業で出会った講師とのご縁がつながり、契約キャリアコンサルタントの仕事に就くことができたのです。
現在、井上さんは20代の若者の就職活動に関する個別相談や、Excel/Word基礎講座、履歴書の書き方、面接対策、グループディスカッションの対応の仕方などを講師として教えています。5年程度は実績を積み、いつか子どもたちが社会人となった頃に、独立したいと考えています。同時に、地域活動を通じて、男女共同参画を伝えていける人材として成長していきたいと考えています。
地域で学び、つながる場「CORAL」の立ち上げ
現在、井上さんは仕事の他に、地域で女性が学びつながる場として、女性コミュニティ「CORAL」の活動に力を注いでいます。CORALは英語でサンゴ、「産後」にかけて命名しました。現在、会員は14人、設立4年目を迎え、イベントを定期的に開催し愉しみながら続けています。
井上さんの人生には大きな転機が3つあったと言います。1つめは、派遣切りに合い、仕事を辞めざるを得なかった悔しさをバネに行動できたこと。2つめは、男女共同参画に出会い「男性は仕事、女性は家事育児」という思い込みから解き放たれたこと。3つめは、男女共同参画センターの仕事で1年間通じての女性リーダー育成事業をやりとげ自信につながったこと。
なかでも、男女共同参画とめぐりあえたことが一番大きなものだと、結論づけています。これまで出会ったことがない社会で活躍している多くのロールモデルの女性とセンターの仕事を通して出逢えたことも大きい。「自分の悩みが実は社会問題だと気付けたときが転機かな。女性だからという理由で様々な障壁を感じていた時に、男女共同参画の学びが行動する勇気を与えたくれた。夫婦の対等感が生まれ自分の人生を自分で選択できるようになり、考え方がプラスに運んでいくようになった」とまとめてくれました。女性のキャリア形成において男女共同参画を学ぶことは、周りも自分も人生を幸せに捉えられる生き方に変わっていく、自分の経験からそう確信している、と力強く語っています。
LINK
CORAL https://coralogori.jimdo.com/
(平成28年度インタビュー)