弱者のエンパワメントとコミュニティの再生を支えるマネジメント力~中村順子さん

弱者のエンパワメントとコミュニティの再生を支えるマネジメント力~中村順子さん
<プロフィール>
1967年、短大卒業後、大手総合商社に勤めるが2年で退職。1970年転職し、自由でやりがいのある職場で結婚・出産。第2子出産後、仕事と育児の両立が困難になり退職。1982年、専業主婦となるが「このままではいけない」と思い、ボランティア団体「神戸ライフ・ケア協会」に参加。事務局として13年間活動。1995年の阪神・淡路大震災を契機として独立し、「東灘・地域助け合いネットワーク」を立ちあげる。1996年に「NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸」に移行し、当事者支援からコミュニティ支援、さらにはNPOの立ち上げから継続を支援する中間支援組織の理事長となる。(60代)
中村さんのこれまで
1967年 短大卒業後、総合商社に就職
1970年 広告代理店営業部に転職
1973年 同じ広告代理店に勤める夫と結婚
1974年 第一子誕生、3年後に第二子誕生
1982年 仕事と育児の両立困難から退職
「神戸ライフ・ケア協会」のボランティアとなる
1995年 阪神・淡路大震災
「東灘・地域助け合いネットワーク」設立
1996年 NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸を設立、理事長となる
働くことへの自覚と育児との両立の間で

  1967年1月、短大2年生だった中村さんは、たまたま受けた大手総合商社に採用されました。当時、女子学生の就職は結婚までの「花嫁修業」「腰かけ」という風潮で、会社もそのような扱いでした。中村さんは、就職への強い意志はありませんでしたが、自立志向が強く、商社の仕事に物足りなさを感じ、2年で退職しました。お見合いして結婚しようかという気にもなりましたが、本当にそれでいいのかと自問自答し、「もう一度、仕事をしよう」と気持ちを新たにしました。この時が、働くことへの意思を確認した最初の転機でした。
  1970年、知り合いの紹介で就職した広告代理店は、女性が働くとことを大事にし、賃金や昇給の男女差はなく、民主的で開かれた会社でした。営業を担当し、3年後、同じ会社の夫と結婚、大阪の団地で結婚生活を送りました。そして、1年後に第1子、3年後には第2子を出産。第2子の子育てが始まるまでは、仕事と育児にと、忙しいけれどワーキング・ママとして充実した日々を送っていました。子どもを保育所に預けますが、当時は長時間保育などなく、自分で近所にチラシをまいて、二次保育を引き受けてくれる60歳代の夫婦をみつけ、とてもよい関係の中で子育てができました。しかし、第2子は保育所の定員の問題で、第1子と違う保育所に預けることになり、仕事と育児の両立がうまくいかなくなりました。夫は家事・育児を手伝う余裕もなく、中村さんは育児を抱え込み、仕事も緊張、生活も緊張する中で息苦しさを感じるようになりました。

社会の中で仕事をする−ボランティア活動との出会い

  仕事と育児の両立の困難さの中で、神戸の一軒家に引っ越すという話もあり、自分と家族を立て直すために、1982年12年間勤めた広告代理店を退職することにしました。しかし、専業主婦になったとたんに「このままじゃいけない」と思い始めました。社会の中で仕事をすることで、自分はとても生き生きしていたことに気づいたのです。中村さんは、「仕事を辞めるまでは、忙しすぎて自分を見失ったが、今度は暇すぎて自分を見失う」と思い、仕事を探し始めました。
  そんな時、市の広報で「神戸ライフ・ケア協会」の取り組みを知り、さっそく協会のボランティアになりました。「神戸ライフ・ケア協会」は、利用者から1時間600円の利用料を徴収し、7割はケアするボランティアに、2割は時間貯蓄、1割は協会の維持経費にあてるという方法を取っていました。利用料を払うことで利用者も気兼ねなくサービスを依頼することができ、ボランティアもまた利用者に喜んでもらえた上に、報酬を得ることで活動へのモチベーションが維持できるという、利用者と支援者の対等の関係をめざしたシステムです。中村さんは、この持続可能な循環型の運営のしくみに惹かれ、これなら夫の給料を持ち出さなくても活動ができると思いました。ボランティアの世界も福祉の世界も初めてで、毎日が目新しく、面白く、一生懸命活動しました。
  「神戸ライフ・ケア協会」の利用者が増加するなかで、利用者のニーズを把握し、的確な自立支援のメニューを提示するコーディネーターの仕事を担うようになりました。同時に協会ではボランティアも増加していったため、事務局として組織のマネジメントも担うようになりました。ここで、NPOの組織運営の基本を学びました。

当事者支援からコミュニティ支援、そして中間支援組織へ

  「神戸ライフ・ケア協会」で活動していた1995年、阪神・淡路大震災に直面します。震災で自らも被災する中で、目の前の被災者に何かしたいと強く思い、協会から独立して「東灘・地域助け合いネットワーク」を立ち上げました。最初の仕事が水汲みボランティアです。被災者の生活用水(飲料水は足りていてもトイレや食器洗いなどの生活用水が不足)を確保することが、どれほど被災者の安心につながるかを実感していた中村さんの発想です。阪神・淡路大震災の被災者支援という当事者支援から、「東灘・地域助け合いネットワーク」の活動は始まりました。
  2ヵ月後、仮設住宅に入ってからの仕事は、コミュニティ支援でした。仮設住宅に入っている人々は知らない者同士なので、テントを持っていって「みんなでお茶を飲みましょう。みんな出ておいで。お茶会をしながら怖かったことなど、話しをすると楽になるよ」と声をかけて、隣近所の関係づくりを始めました。
  1996年10月に「NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸(以降「CS神戸」)」の活動が始まりました。「CS神戸」では、被災者の持っている力を呼び戻すことが支援の柱でした。被災した直後は、失ったものを補填することが目的でしたが、1年くらい経つと、要望ばかりが強くなります。支援されるばかりではなく、自分の持っている能力・技術を活かして元の自分を取り戻し、戻った自分と社会がつながることによって自分の存在意義を確認し、そのことによって生きがいを獲得するのです。被災者が自己有用感を実感し、その活動に対価がともない、事業化することを通して、被災者が支援されるだけでなく、コミュニティの再生・創出につながっていきます。
  阪神・淡路大震災の被災者支援を通して、コミュニティの再生・創出の重要性を実感した「CS神戸」は、「自立と共生」を理念にコミュニティづくりを支援する中間支援組織へと移行していきます。市民が「新しい公(おおやけ)」に参画するための共生循環型まちづくりやNPOの立ち上げを支援し、現在(2010年10月調査時)220余りのボランティア・グループやNPOが地域で活動しています。

(平成22年度インタビュー、平成24年度掲載)

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