思いは届く~障がいのある人が街中で普通に暮らせる地域をつくる~西川紀子さん

思いは届く~障がいのある人が街中で普通に暮らせる地域をつくる~西川紀子さん
<プロフィール>
子どもが生後6ヵ月で難治性てんかんを発症、3歳の時に知的障がいもあることがわかり、そこからはすべてがハードルだらけ。小学校に入る時、養護学校に入学するためには併設の児童入所施設に入らなければならない。家族・地域から子どもを分断するような就学に納得できず、通学できる学校探しに奮闘。その後、県立養護学校に通学できるようになり、小中高等部の12年間通学送迎を続ける。その中で障がいのある人が地域の中でその人らしい生活を続けることができるような社会を実現するために活動をはじめる。ボランティア団体、NPO法人を立ち上げ、さらに事業の拡大、充実を図るため2011年、社会福祉法人「ロングラン」を設立。理事長を務めている。(50代)
西川さんのこれまで
1978年  大学卒業後就職するが、結婚を機に夫の両親のいる柏崎に転居
1983年  長男を出産
「難治性てんかん」の診断を受けて、子どもが1歳の時から入退院を繰り返す。子どもが3歳の時に知的障がいがあることがわかる
子どもが養護学校に通い、送り迎えが始まる(12年間)
養護学校に関わる課題に取り組む
2000年  心身に障がいのある子どもの親の会トライアングルを母体としてボランティア団体「トライネット」を設立
2003年  NPO法人「トライネット」に移行
2011年  社会福祉法人「ロングラン」を設立
思いは届く~障がいのある人が街中で普通に暮らせる地域をつくる~西川紀子さん
障がいのある子どもを出産

  27歳の時に初めて出産した子どもは、6ヵ月の時に大きなけいれん発作を起こして入院、難治性てんかんであることがわかり、1歳の時から入退院を繰り返しました。東京女子医大に母子入院をして、難病・重症の子どもが全国からたくさん来院していることを目の当たりにして驚きました。それまでは健康で入院したこともなく、「健康であるのが当たり前、穏やかな家庭環境も当たり前」だった今までの生き方を問い直す機会となりました。子どもを連れて病院に行ったときから「私は人生の次のページがめくられた気がした」といいます。
  さらに、子どもの病気と闘っていた西川さんを、次の試練が襲います。言葉や歩行など発達が遅れているのは病気のせいだと思っていましたが、知的障がいもあると宣告され、絶望感を持ちました。
  養護学校の存在は知っていましたが、それは別世界のことで、自分には関係がないと思っていました。「障がい児の親」になった私はこれからどうなるのか、暗闇に取り残されたように感じて、とにかく自分が可哀想だった、と当時をふりかえります。

児童入所施設に入って養護学校に行くしかない?

  障がいのある子どもをもつ親が大きなハードルがあることにまず気がつくのは、小学校就学時です。事前に就学相談委員会で指導を受けることになっており、養護学校へ行く道筋がつけられていました。しかも自宅を離れて児童入所施設に入らなければ養護学校には行けないと言われます。西川さんがこだわったのは、障がいのある子どもを家族や地域から隔離してしまうことでした。
  自宅から通わせることができないかと、学校探しをはじめました。地元の小学校に、特別支援学級に入れてもらえるようにお願いしましたが、重いてんかん発作のある子どもの安全確保ができないと断られました。その後、児童入所施設が定員オーバーのため、通学で養護学校に行けるようになり、小中高と12年間通いました。

初めての気づきはジャージ

  通学を始めると疑問が次々出てきます。そのひとつが子どもたちが着るジャージです。当時、養護学校の子どもたちはそろいのジャージ上下で、大きな名札を縫い付けていました。この姿で市内の小中学校との交流授業に参加させたくないと思い、学校側に変えてほしいと要望しました。それができたのは養護学校に通学する子どもが少しずつ増え、10人くらいのお母さんと仲間になったからです。すぐにではありませんでしたが、学校設立以来のジャージを変更することができました。
  給食のシステムも変えました。入学当初は、施設に入所している子どもはお昼になると施設で暖かいものを食べて戻ってきますが、通学生は毎日弁当を持って行かねばなりませんでした。なぜ待遇が異なるのか聞くと、学校は県立、施設は市立なので同等に扱うのが難しいとのことでした。学校給食は県の問題だと言われたので、県会議員に相談しました。県でも問題となり、3年以上かかりましたが、給食センターから届く給食が生徒全員に提供されるようになりました。その後も学校設備の充実・教員の増員・分校から本校化、高等部の設立と手がけていきました。
  このような活動を通して当事者として問題に気づき、それを解決していくプロセスを学習していきました。それができたのは、お母さんたちとの仲間意識の強さ・団結力の強さがあったからです。養護学校に子どもを送迎する親は、毎日9時に送り14時にお迎えという生活です。当時は障がいのある子どもの母親が働く環境が整っていなかったので、専業主婦がほとんどで、校門で立ち話をしたり、子どもが学校に通っている間に一緒に買い物に行ったり、お昼を食べたり、みんなで泣いたり笑ったりしました。それは情報交換だけでなく共感する場に、そして行動の原動力になっていきました。

グループを作る

  こうした活動の中から障がいのある子どもを持つ親の団体が3つ集まって、「トライアングル」が誕生しました。子どもの障がいは異なっていても、子どもの将来の幸せと自分たちの幸せを願うことで一致しました。全国から資料を取り寄せて読んだり、先進事例の見学会をするなど「共同学習期」が始まりました。西川さんはこの中で重要な役割を担います。東京女子医大病院に通っていたため、東京や全国の動きの新しい情報が手に入り、それをもとに皆で学習を続けました。
  活動する人数も40人ほどに増え、様々なイベントを企画します。当時、障がい者ボランティアというと、車いすを押すイメージで、知的障がいのある人が求めるボランティアがイメージされませんでした。そのためイベントを通して、いろいろな人に子どもと接してほしいと、学生などに幅広く声をかけました。ひとりの願いは我がままでしかありませんが、5人・10人・100人の願いは市民ニーズになります。組織の大切さ、その意味を実感しました。

ボランティア団体トライネットを立ち上げる

  トライアングルで学習し活動する中で、学校を卒業した後、どこに通えばいいのかという大きな課題が明らかになりました。障がいの重さにかかわらず通える受け皿が街の中にほしい。時を同じくして、国の福祉施策も「高齢者も病人も障がいのある人も、みんなで地域で支え合いながら暮らす共生社会の実現」という方向に変わりつつありました。柏崎でそれを具体的に進める提案のひとつが「障がい児の放課後支援」の取り組みで、事業の受け皿になってくれないかという依頼があり、思い切って引き受けました。ボランティア団体として親だけでなく、広く関わる人がいる団体にしてほしいという行政の意向もあり、2000年6月、一般市民ボランティアを巻き込んだボランティア団体「トライネット」を立ち上げ、市から事業を委託します。トライネットには「レッツ・トライ・ネットワーク!広げよう助け合いのネットワーク」の思いが込められています。
  元気館タイムケア(障がいのある学齢児童の放課後支援事業)を開始したところ、当初の予想を上回る利用がありました。会員相互の助け合いで、放課後以外のタイムケア(見守り)や送迎も実施。2002年4月にはトライネットの実施する障がい者の地域生活支援事業の活動拠点として市内に「スペースあると」をオープン。学校卒業後、施設入所の道しかなかった重度の障がいのある人が日中を過ごす場所が初めて市内に誕生しました。

NPO法人の立ち上げ

  こうした事業を展開する中で今後も新しい事業を展開し、順調に進めていくためには責任ある体制を整えることの必要性を感じました。NPO法ができた直後で、柏崎の中でも「NPOと行政の協働指針」作りがはじまっていました。指針づくりに西川さんが委員として入った時に、長野県NPO協会の事務局長と知り合いになり、次のステップに進もうと背中を押されました。福祉分野の事業をやっていくのなら、まずNPO法人をとる、機が熟したら社会福祉法人をとるという道筋を考えた方が良いというアドバイスを受けました。その後、事業を拡大し、最初は居宅介護事業というヘルパー派遣事業所を開設しました。国の規制緩和が進み、NPO法人となってからは活動を着実に広げ、2011年には社会福祉法人「ロングラン」を設立し、更なる障がい者支援の活動の充実に貢献しています。

(平成22年度インタビュー、平成24年度掲載)

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