市役所で働き続けて、女性センター館長に~地域での男女共同参画推進に取り組む~中野波津巳さん

市役所で働き続けて、女性センター館長に~地域での男女共同参画推進に取り組む~中野波津巳さん
<プロフィール>
大学卒業後、鶴ヶ島町(当時)職員に。経済課農政担当として専業農家の女性グループ「ひまわり会」と出会う。職場を異動しながら、結婚・出産。政策推進課に異動し、男女共同参画担当となり、大学院に進学。2005年『国立女性教育会館研究紀要』第9号に「ひまわり会」についてまとめた実践事例報告が掲載される。その後税務課を経て、2007年4月、鶴ヶ島市女性センター館長に就任。(40代)
中野波津巳さんのこれまでと
生涯学習との関わり
大学卒業後、自治体職員となる。
経済課農政担当となり「ひまわり会」と出会う。
職場を異動しながら、結婚・出産。
政策推進課に異動し、男女共同参画担当となるが自分の勉強不足を実感。大学院に進学。
実践事例報告が『国立女性教育会館研究紀要』に掲載される。
税務課に異動後、念願の女性センターに館長として就任。
一生働きたいと願った幼少時代〜学生時代

  埼玉県の鶴ヶ島市女性センター「ハーモニー」館長、中野波津巳さんは、専業主婦の母とサラリーマンの父という家庭で育ちました。両親の仲が悪かったわけではありませんでしたが、母の経済力がないために発言権がないという姿を見て、「私は絶対一生働き続けよう」と心に決めていました。ずっと働き続けられる仕事と考えて、はじめは看護学部を目指しますが、受験に失敗。自分は何をやりたいのだろうと考えなおし、「仕事を続けるために、社会とかかわるために、どう学んでいったらいいかを考えたい」と、教育学部で社会教育を専攻することにしました。ところが、当時の婦人教育や家庭教育の講義では「家庭における婦人の役割」などが扱われ、女性が母や妻の役割を越えないことに疑問を感じました。また在学中のサークル活動においても性別役割分担が存在していました。

「ひまわり会」との出会い

  卒業後は、社会教育の現場であり、市民と直接かかわれる公民館などで働くことを希望し、当時はまだ町だった鶴ヶ島の職員となりました。ところが、最初の配属は町長秘書。「こんなはずじゃなかった。辞めようかな」とも思いましたが、少し頑張ってみようと思いとどまりました。そして町長秘書を3年間務めるうちに、町役場全体が見えてきて、仕事が面白いと思うようになりました。次の異動では経済課で農政担当となり、「ひまわり会」の女性たちと出会います。これが中野さんの転機となりました。
  「ひまわり会」は、1988年にできた、専業農家の女性たちが消費者と直結した農業を目指して活動するグループで、市は農業支援の一環として会の活動を支援していました。中野さんはその事務局を担うことになります。女性たちが、育児も家事もしながら仕事も頑張り、先細りとなっていた農業の建て直しのために、自分たちの意志で何かをしようとしている姿に、中野さんは大きな刺激を受けました。生活の中から得た知恵とたくましさ、ネットワークを組みながら仲間と一緒に活動する実践のすばらしさなど、「ひまわり会の女性たちには本当にたくさんのことを教えてもらった」と中野さんは言います。専業主婦であった自分の母はたくさんの愛情を注いでくれましたが、「妻」「母親」以外の役割を持っている人の目の輝きは、母とは違うと感じました。

女性の先輩に励まされながら、子どもをもち仕事を続ける

  その後、中野さんは「広報」「障害者福祉」と異動し、公民館で働く夢からは、どんどん遠のいていくかのように見えました。それでも「消費者にアピールする農業」を広報の立場で発信したり、社会福祉主事の資格を取ってスキルアップをしたりと、自分に与えられた職務の中でできることを実践していきました。
  その間に結婚・出産もしました。当時はまだ育児休業法の制定前で、産後8週間で復帰。「授乳期間中に、トイレで搾乳しなければならない状況は辛かったですね」と中野さんは当時を振り返ります。その辛い時を乗り越えていくことができたのは、女性で初めて係長試験を受けた人たちが作った「まちづくり研究会」という女性の職員の勉強会でのネットワークでした。そこでの先輩たちの姿が励みとなり、助けを得て、仕事を続けることができました。

社会人学生としての学びが仕事に活かされて

  男女共同参画社会基本法が制定された1999年、中野さんに2度目の転機が訪れます。政策推進課に異動し、男女共同参画を担当することになったのです。職務を通じて、自分がずっと「何か変だぞ」と疑問に思っていたことを解決する糸口がここにあったのだとうれしくなりました。同時に、担当者として十分な知識がなく、勉強しなければと思っていたちょうどそのときに、城西国際大学大学院人文科学研究科女性学専攻(修士課程)で、社会人を受け入れるという情報を得たのです。願書締め切り1週間前のことでした。土曜日に開講するため、仕事を辞めずに、条件さえ満たせば1年で修士が取れるということで、すぐに決断しました。学費を全部自分で賄えたことも、ひとりで決断できた理由でした。
  フルタイムの仕事と大学院との両立は、確かに厳しいものでした。朝4時に起床し、出勤前の2時間を自分の勉強時間に当てました。夫や娘、両親は全面的に応援をしてくれました。
  結局1年半かかりましたが、無事修士論文をまとめたところ、指導教員に『国立女性教育会館研究紀要』(当時)への投稿を勧められました。それが第9号掲載の「地域社会における女性のエンパワーメント:鶴ヶ島市ひまわり会の実践記録から」です。ひまわり会のメンバーは「自分たちが夢中でやってきたことを、どのように捉えることができるのかというものがほしかった」と、中野さんの論文掲載を非常に喜んでくれました。
  大学院で知り合った先生や学生との交流は、自分の宝となりました。仕事だけをしていたときには狭かった世界が、アンテナを立てればこんなに広がるのだと実感しました。大変でしたが、学校に行くと元気になれて、貴重な1年半だったと中野さんは言います。

夢に向かって

  その後税務課に異動し、税制には、いかにジェンダーバイアスがかかっているかを知りました。ジェンダーの視点で社会を見るのに、色々な職場を経験したことが役に立っています。
  2007年4月、中野さんは「鶴ヶ島市女性センター」の館長に就任しました。政策推進課で男女共同参画の担当になってから、女性センターでの勤務を希望し続けていましたが、その熱意と大学院での研究が認められた結果でした。念願の女性センター勤務ですが、財政状況が厳しい中で、老朽化した施設の管理と、利用者に男女共同参画の事業に関心を持ってもらうのは難しいという悩みはあります。男女共同参画推進条例の制定も任されました。「忙しくなりますね」という言葉に、「そうですね。大変です」と言いながら、中野さんの顔は明るく輝いていました。


◆中野波津巳さんの掲載実践事例報告

「地域社会における女性のエンパワーメント:鶴ヶ島市ひまわり会の実践記録から」
『国立女性教育会館研究紀要』第9号

(平成20年度インタビュー)

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