自身のキャリアの追求と女性の地位向上の社会活動をともに~会社員 田中恭子さん

自身のキャリアの追求と女性の地位向上の社会活動をともに~会社員 田中恭子さん
<プロフィール>
大阪府出身。大学の外国語学部を卒業後、外資系企業に就職。結婚を機に転職。出産後もさまざまな会社で仕事を続け、現在は自動車製造会社の生産部門で女性初の管理職として働いています。4歳の娘を抱え、ベビーシッターなども活用しながら、バレーボールやNGO活動にも積極的に取り組み、NGO国際女性の地位協会理事も務めています。(30代)
田中恭子さんのこれまでと
生涯学習との関わり
高校卒業後、大学の外国語学部英語学科に進学。
大学卒業後、外資系の食品会社に入社。営業の仕事につく。
本社勤務となり、結婚と転居をきっかけに退社。
派遣社員として働きながら、正社員の勤め口を探す。
損害保険会社に正社員として入社。実績を積み、高い評価を得る。
外資系医療機器メーカーに転職。個人負担でビジネス英語スクールに通う。サプライチェーンマネジメントの仕事に携わり、マネージャーに昇格。
仕事のかたわらビジネススクールに数年間通い、いくつかのコースを受講。
出産。産後8週間で職場に復帰。
自動車製造会社に転職。
管理職に昇格。NGO「国際女性の地位協会」の理事、地域のママさんバレーへの参加など、仕事、NGO活動、子育ての多方面で活躍。
自身のキャリアの追求と女性の地位向上の社会活動をともに~会社員 田中恭子さん
数少ない女性管理職として働く

  いくつもの転職を重ねてきた田中さんは、現在、自動車製造会社の生産事業本部で、管理職を務めています。入社して最初の3年間は、それまでの経験を活かしたサプライチェーンマネジメント(生産と販売を計画的に結びつけて、企業活動を最適に保つこと)の仕事を担当していました。その後、たまたま、会社が女性の管理職の割合を増やすことに取り組みだし、タイミングがよかったこともあって、管理職に昇格。生産事業本部で副社長のサポート業務を中心とする仕事をするようになりました。

(平成17年度インタビュー、平成19年度掲載)
  かつて外資系の企業で営業を担当していた頃は、女性であることの影響はほとんど感じませんでした。しかし、日本の大企業である現在の会社では女性の活用は遅れており、女性の管理職は非常にわずかでした。すでに他社で管理職を経験していた田中さん自身には、戸惑いはありませんでしたが、周囲の方が女性の管理職を受け入れるのに戸惑っている感じでした。

大学時代から就職まで−男女の区別なしに仕事ができる職場を探す

  田中さんは、大阪万博の頃に住宅地として開発された大阪の郊外で生まれ育ちました。父親はサラリーマン、母親は専業主婦。周囲にはそのような核家族が多く、職業を持つ女性はいませんでした。そのせいか、高校時代は将来の職業について考えることもなく、ただ何となく、結婚して幸せな家庭が築けたらいいと思っていました。
  大学は、英語とイギリスに興味があったので、外国語学部の英語学科を選択。将来のことを考えて選んだのではなく、とりあえず語学をやっておけば、それが基礎に前途が広がっていくのではないかと思ったからです。
  就職活動の時期を迎え、初めて仕事のことを考えるようになりました。日常生活に結びついた業種がよいと思い、食品会社などを選びましたが、就職活動で、それまで感じたことのなかった男女の違いを強烈に実感。悔しく思い、女性が働きやすい職場にいこうと決めました。
  内定を受けた2つの企業のうち、一方は秘書の仕事で、まさに女性に用意された仕事、もう一方は営業職で、男女の区別がほとんどない仕事でした。どちらも女性が比較的活躍している企業でしたが、性別に関係なく活躍できるところということで、後者を選びました。外資系ではありましたが、採用の段階で英語が特に評価されたことはなかったそうです。

転職を重ね、キャリアを積む

  就職すると営業の仕事につきましたが、しばらくして、本社に異動となりました。男女平等だった営業の仕事とちがい、本社での人事労務は非常に日本的で、ここでは女性が活躍する余地は少ないと感じました。そこで、入社後3年目に結婚し、関東地方に引っ越すことになったのをきっかけに、退職しました。
  関東地方に移り住んで約2ヵ月後、派遣社員として再び働き始めました。しかし、そのままではキャリア・アップへの道が開けるか疑問だったので、将来のことを考えて正社員としての働き口を探しました。当時の住居は、東京へ通勤するには遠い場所にあったので、地元で探し、新聞チラシの広告を見て、損害保険会社に就職しました。
  ここでの採用はいわゆる地域採用でした。数年後に実績を積み、高い評価も得たところで、本社勤務の希望を出しました。しかし、本社採用への転換は、制度も前例もなく、人事部長も難色を示しました。希望が通るまでには時間がかかりそうだったので、転職することにし、人材紹介会社を通して、外資系医療機器メーカーに就職しました。
  医療機器メーカーでは、最初マーケティング部門で働きました。その後、サプライチェーンマネジメントという仕事に移り、マネージャーに昇格。しかし、離転職が非常に多い職場だったので、もう少し落ち着いて働きたかったことと、同じ業務を国内に工場を持つ日本企業で経験してみたいと思ったことから、再び人材紹介会社を通して転職先を探し、現在の自動車製造会社に勤めることになりました。

NGO活動へのかかわり

  「国際女性の地位協会」には、関東地方に移ってきた頃、新聞のイベント案内で興味を持ち、参加しました。国連の女性差別撤廃条約の研究普及活動をする団体で、これまで自分が感じてきたような悔しい思いを後の女性たちが感じないですむように貢献できればいいと、ライフワークと思って活動しています。

仕事を続けるための工夫−家族の協力とリフレッシュ

  夫は、できれば妻は家庭で家事・育児に専念してほしいと思っていましたが、本人が働きたいなら働くのがいい、と考えていました。田中さん自身は、専業主婦をしていた時期もありますが、社会から切り離されたようでストレスを感じ、自分には向いていないと思いました。それならチャレンジをして納得したほうがいいと話し合い、住まいも夫の会社の社宅を出て、夫の職場と自分の職場の中間に転居しました。東京の方が男女平等で、本格的に女性が働くチャンスが多かったからです。
  子どもの出産後は、8週間で職場に復帰しました。保育園の延長保育で足りない部分は、ベビーシッターを頼み、夫もなるべく早く仕事を切り上げるなどして2人で調整してきました。夫は研究職で時間の調整がしやすく、考え方も柔軟だったので、話し合いをしながらお互いに納得する方法を模索してきました。実家は両方とも遠いので、育児のことで協力を頼むのは1年に数回、海外出張で不在となる時くらいです。家事も、かなり家政婦に依頼しています。今のところ子どもは1人で手一杯という感じです。
  子どもを持つと、保育園仲間やベビーシッターなどの関連で、それまでほとんどなかった地域での付き合いもできてきました。現在は趣味で地域の人たちとママさんバレーを週2回やっています。大会にも参加していて、平日なら休暇をとって参加。これがリフレッシュの手段となっています。

進んではぶつかりを繰り返して

  田中さんは、最初に何かはっきりした目標があったわけではなく、進んでは何かにぶつかり、その都度方向を変えてはまた何かにぶつかり、という試行錯誤の中でキャリアをたどってきました。「何かを探しながら、その時々で必要な選択をしていけばいいと思います。ただ、そのときに必要な判断の軸になる価値観のようなものは育てておいたほうがいいかなと思います。」自分の考えをはっきりもつことが、進路を大胆に変える勇気と、困難に負けない粘り強さにつながっているのでしょう。

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