NPO法人「冒険遊び場の会」について
「冒険遊び場の会」は、冒険遊び場の運営や、子どもの遊び場や子育て環境を改善するための研究・啓発事業をとおして地域の子育てを支援するNPO法人です。角さんは、ここで2004年まで代表を務め、現在もスタッフとして活動を続けています。
実はこの活動には、20年以上に及ぶ長い前史があります。はじまりは1982年に設立された「国分寺市プレイステーション」でした。この遊び場を運営していた財団法人が、98年、財政的な事情により撤退を決意。そこで、プレイステーションを維持したいと考えた市民は行政と話し合い、市民団体「国分寺冒険遊び場の会」を設立し、市から運営を受託するという形で引継ぎを実現しました。そして、この市民団体を母体として、2000年にNPO法人「冒険遊び場の会」が設立され、今日にいたっています。
主な活動としては、1)冒険遊び場国分寺市プレイステーションの管理・運営、2)遊びの出前「プレイキッズ」の運営、3)親子で遊ぼう「ブンブンひろば」の運営、4)人材の派遣、5)移動児童館の運営、などがあります。さらに、2004年10月には子育ち広場「BOUKENたまご」を駅前にオープン。ここを拠点に、親子サロン(含個別相談)、手作りSHOP、手作り講習会、講演会・研修会の開催、貸しスペースなど、活動の幅を広げています。
教員として働いた5年間
いつの間にか福祉に興味を持つようになり、高校時代には精神科医にも憧れました。やがて、自閉症児のことを書いた本を読んで、障害児教育を目指すようになり、大学で障害児教育を専攻。同時に、学生ボランティアとしてさまざまな障害者の運動に関わり、多くのことを学んだといいます。
卒業後は、学校に勤めたかったのですが、結局、教育委員会に就職。重度の障害児を対象に、教育相談員と訪問指導をおこなうことになりました。訪問教育では、子どもやその親と直接話し合い、少しでも子どもたちを問題の集積する状況から救い出そうと孤軍奮闘。しかし、1人でやることの限界も感じていました。
2年後、養護学校に転職。熱心な同僚に囲まれ、教育内容も優れていました。しかし、それまで地域との関わりの中で障害者を見てきた角さんにとって、学校という枠は息苦しくもありました。このままでいいのかと自問しながら3年間勤め、結婚を機に退職。しばらく母親のやっている医学雑誌の出版編集を手伝いましたが、出産を迎え、子育てに専念することにしました。
育児グループ「はとぽっぽ」
子どもの頃、母親が仕事に忙しく寂しい思いをしたので、自分の子どもとはしっかり向き合いたいと思っていました。当初は友達もいなかったので、まずは熱心に公園通いをスタート。そのうち、1人2人と友達ができ、定期的に集まっては、公園や動物園に出かけたり、自宅で音楽やお菓子作りを楽しんだりするようになり、育児グループ「はとぽっぽ」を結成しました。
グループで活動していると、だんだん親どうしで話したいことも増えてきました。最初は自宅の茶話会で話していましたが、子どもかたわらでは落ち着きません。そんなとき、仲間の1人が公民館に「保育室」があるというので、公民館を使って話し合うようになりました。
当時(1980年代初め頃)は、ちょうど三多摩地域の公民館保育室活動が活発に動き出していた時期で、国分寺の公民館では、全国の先駆けとしてこの活動に非常に力を入れていました。そこへ、部屋だけ借りて活動は自由にやらせてほしいと頼んだため、さまざまの議論を呼び、最終的には、当時としては異例の許可を得ました。このやりとりによって、グループはずいぶん鍛えられたといいます。
公園のお山づくりに挑戦
公民館を利用する一方で、週に1回は必ず公園で外遊び。ありきたりの公園では物足りなくなった角さんたちは、ついに公園の担当課を訪ね、「山を作って下さい」とか「丸太を置いて下さい」とお願いしてみました。しかし「冒険遊び場」についての事例や情報も、まだ少なかった時代のこと。そう簡単にはいきません。グループで要望書を出し、2年がかりの交渉の末、とうとう「お金がないから、自分たちで作るなら泥だけは運んであげる」という回答を引き出しました。「自分たちで作る」とは意外でしたが、せっかくのチャンス。近所の大人子どもが集まり、皆で泥を踏み固めて、公園にお山を完成させました。
行政というのは、お願いするだけでは動かない。まず市民の方から動いてしまって、それを認めてもらうこと。角さんは、少しずつ市民活動と行政との関わり方のコツをつかんでいきました。
「遊び場を考える会」
さらに公園について調べていくうちに、角さんたちは「冒険遊び場」という自分たちの考えていたような遊び場があることを知り、国分寺市プレイステーションに通うようになりました。しかし、自宅からバスや徒歩で約45分の道のりを、小さい子どもを連れて移動するのは大変。そこで、家の近くにも「冒険遊び場がほしい」と提案。公園担当行政だけでなく、都市計画の部署をも訪ねて話を聞き、行政の仕組みや政策立案の流れを勉強するうちに、実現には10年かかることに気づきました。それなら10年がかりでやろう、と決意しました。
実現のためには、プランを立て、文章化することが大事であることもわかったので、「遊び場を考える会」を立ち上げ、調査結果を「遊び場マスタープラン」という冊子にまとめ、市に提出。市の人は、この文章に目を通し、部分的にでも活かしてくれているといいます。こうした地道な努力が、プレイステーションの運営の受託という現在のNPO活動につながっています。
「子どもと向き合うことは自分の生き甲斐をあきらめることだと思わずに、子育てを通じて社会的に生きることも十分可能だという例を、自分たちの活動から汲みとってほしい」と角さんはいいます。知識をつけると同時に、現場での小さな交渉の努力を厭わず続けていくこと。それが角さんの地道な活動とその成果を支えているのでしょう。
(平成16年度インタビュー、平成18年度修正)