「女性議員の数をフィフティ(50%)に」をめざして~問題意識を形にして、積み上げていく~森屋裕子さん

「女性議員の数をフィフティ(50%)に」をめざして~問題意識を形にして、積み上げていく~森屋裕子さん
<プロフィール>
女性議員の支援活動をおこなうNPO法人「フィフィティ・ネット 女性と政治・政策センター」代表理事。専業主婦時代に、女性学の研究会に参加して問題意識が明確になり、大学の法学部に編入学。卒業後、男女共同参画分野の政策コンサルタントをしながら、「フィフティ・ネット」を設立。さらに、女性問題図書専門書店「ウィメンズブックストアゆう」の代表取締役にも就任。(50代)
森屋裕子さんのこれまでと
生涯学習との関わり
大学の英文科を卒業し、外資系コンピュータ会社に就職。
結婚。夫の勤務地である大阪に転居するため退職。出産し、専業主婦となる。
本当にこのままでいいのかと疑問を感じ、「日本女性学研究会」に参加。学びながら、英語講師のアルバイトを開始。
女性学を学んだことで社会科学に興味をもち、30代後半で、国立大学の社会人入試(第1期生)を受験。法学部3年次に編入。
4年かけて大学を卒業。政策コンサルタント事務所に就職。
1995年の統一地方選挙で友人の選挙出馬を応援し、女性が選挙に出ることの難しさを痛感。翌年、仲間とグループを作り、議員を目指す女性のためのバックアップ・スクールを開催。
活動の拡大に伴い、1999年にグループ名を「フィフティ・ネット」に改称。2001年にNPO法人となる。
政策コンサルタント、NPO活動と並行して、女性問題専門書店「ウィメンズブックストアゆう」の代表取締役に就任。
「女性議員の数をフィフティ(50%)に」をめざして~問題意識を形にして、積み上げていく~森屋裕子さん
「3足のわらじ」

森屋さんは、「女性議員の数を50%(フィフティ)に」をモットーに、女性を議会に送り出すための支援活動をおこなうNPO法人「フィフティ・ネット 女性と政治・政策センター」の代表理事を務めています。
それと同時に、政策コンサルタントとしても、男女共同参画分野を中心に、個人事務所をかまえて活躍中。さらに2002年からは、大阪府立女性総合センター内にある女性問題専門書店「(有)ウィメンズブックストアゆう」の経営を仲間と引き継ぎ、代表取締役として、書店の経営にも携わっています。
3つの仕事は、それぞれ関連し合っているものの、二足どころか「三足のわらじ」を履いて、大忙しの毎日です。

「フィフティ・ネット」の活動

フィフティ・ネットでは、大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)を拠点に、政治に関心を持つ女性や、議員に立候補したい女性に向けて、政策立案のやり方や議会の仕組み、選挙のノウハウなどを教える「バックアップ・スクールIN関西」を企画運営しています。講座では、研究者・政治家による講義のほか、選挙のシミュレーションや街頭演説など、実践的なプログラムもおこなっています。また、女性の議員や立候補者どうしが情報交換できる場を提供し、ネットワークづくりにも力を入れています。
森屋さんがこの活動を始めて7年。すでに30〜40人以上の女性を議会に送り出し、女性議員のネットワークも育ってきました。また、大阪府内では、全国で初めて「女性ゼロ議会」(女性議員が全くいない議会)が消滅。これも、活動の成果の1つといえるかもしれません。
とはいえ、全国的には女性議員比率は7〜8%、半分近くの議会に女性が全くいない状況です。「女性議員の数を50%に」を目指す森屋さんにとって、活動はまだまだ継続の必要があり、むしろこれからが正念場だといいます。

生涯学習との出会い

森屋さんは、山梨県生まれ。実家は、住み込みの店員を抱えるような商家でした。内側から家を支える母親を見ながら、女性の役割というのはそんなにいいものではないと感じていたといいます。
その後、東京の大学で英文学を学び、外資系のコンピュータ会社に就職。パンフレットの翻訳などの仕事をしました。数年後、結婚し、夫の勤務地の大阪に住むために退職。子どもも産まれました。しかし、専業主婦として過ごすうちに、本当にこのままでいいのか、このままではいけない、と思い悩むようになりました。
新聞広告で見つけた「日本女性学研究会」という学習グループに参加したのは、ちょうどそんな頃でした。女性学は当時まだ始まったばかりで、森屋さんは仲間と学ぶことに熱中。とても楽しかったといいます。自分がこれまで漠然と抱いてきた女性の生き方に対する問題意識が言語化され、理解できるようになったからです。また、市の婦人会館の「女性学講座」にも参加し、自分を見つめる機会をもちました。こうした生涯学習との出会いが、理論の面でも、組織運営の面でも、現在の活動の原点になっているといいます。
また、研究会で培ったネットワークは、その後の職業、NPO活動、両面にわたって続いています。

大学で学び直し、政策コンサルタントになる

女性学と出会った森屋さんは、学んだことをさらに深めるため、社会科学を学びたいと強く思うようになりました。また、英語講師のアルバイトを始めていたものの、フルタイムで働きたいという希望も大きくなっていました。
そんなとき、国立大学の法学部で社会人入試が始まることを知りました。試験に合格して、法学部の3年次に編入学。本格的に、法律・政治について学び始めました。小学生と保育園に通う子どもを抱えての学生生活は、時間的にも大変でしたが、4年かけて達成。1991年、41歳のときに卒業しました。
卒業後は、政策を学んだ経験が買われて、以前から出入りしていた政策コンサルタント事務所に就職。見よう見まねで仕事を覚え、数年後には個人で事務所をかまえるほどになりました。

フィフティ・ネット設立

政策コンサルタントというのは、行政の行動計画作成や調査のサポート、アドバイスをおこなう仕事です。森屋さんは、主に男女共同参画の分野の政策コンサルタントとして活躍していました。そんな中、行政担当者がいくら熱心でも、議会が動かないといったことを何度も経験し、次第に議会、意思決定の場の持つ重要性に関心を向けるようになりました。
ちょうどその頃、統一地方選挙に友人の何人かが立候補することになり、森屋さんもあちこち応援に駆け回りました。ここで、女性が何の後ろ楯もなく立候補することの大変さを痛感。それなら議員に立候補する女性のための政治予備校みたいなものをやったらどうかと思い立ち、1996年に、仲間とバックアップ・スクールの企画団体を設立しました。第1回目のバックアップ・スクールは、当の森屋さんたちもびっくりしたほど大反響を呼びました。
支援活動はどんどん大きくなり、1999年に現在の「フィフティ・ネット」に改称。2001年にNPO法人となり、現在にいたっています。

問題意識を持ったら形にして、積み上げていく

森屋さんには現在、政策コンサルタント、フィフティ・ネット、書店と3つの活躍の場がありますが、3つの活動はお互いに結びついて一体化しています。自分でそれほど意識してきたわけではなくても、女性問題に一貫して関心を持ち続け、そうした活動をやりたいという明確な問題意識を持ってきたことが今につながったのでしょう。関心のあることは積極的に学び、学んだことは必ず何らかの実践に結びつけながら、少しずつキャリアを築いてきました。
これまでの自分を振り返って、「生きていくということは、自分の問題意識がクリアーになっていく過程であることがよくわかりました。NPO活動をしていなかったら今の自分はなかったでしょう」と語る森屋さんにとって、NPO活動は生きていくことそのものなのかもしれません。

(平成16年度インタビュー、平成18年度修正)

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